墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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国指定重要文化財・永代橋

前回のつづき。

隅田川に架かる清洲橋を東に渡り、対岸の江東区を川沿いに下流へ進むと750mほどで永代橋に至る。東岸から見る永代橋(えいたいばし)

 

滑り台のようなアーチ。

 

 

中央区側から振り返って。清洲橋の”下に膨らむ”吊鎖と、永代橋の”上に膨らむ”アーチとは、 日本家屋の屋根の「てりむくり」のように好対比を成す。

 

橋の欄干に長寿命化工事のお知らせがあり、照明器具を交換して建設完成当初(こちらでは昭和3年頃)の姿に復元させているとあった。来年2月からは新しい夜景が楽しめそう。

 

ここも川面近くの「隅田川テラス」に降りられるようになっていた。

 

橋の下も歩ける。

 

橋の下から見る対岸側。

 

堤防の壁の地図に橋の解説もあった。

永代橋
永代橋は元禄年間に「深川の大渡し」に代わって架けられ、佐賀町付近(現在の佐賀一丁目付近)が昔、永代島と呼ばれていたため、永代橋と名付けられました。橋の両際には、広小路を設けて橋番屋が設けられ、高札を立て、武士、医師、出家神主以外の通行人から橋銭を取る有料橋でした。上流の清洲橋の女性的な優美さに相対し、男性的な重量感を持っています。
隅田川と一体になって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を反映していることから、1999年に東京都選定歴史的建造物に選定されました。

 

詳しい現地説明板が見つけられなかったので、以下は文化遺産オンラインの解説などから。

竣工は清洲橋より3年早い大正15年(1926)12月で、設計は清洲橋と同様に内務省復興局土木部長太田圓三ら。

橋長184.7m、幅員25.0mの「三径間カンチレバー式タイドアーチ鋼橋」で建設当初は国内最大支間(しかん)を誇り、昭和15年に勝鬨橋が架かるまで隅田川最下流の第一橋梁・帝都の門であった。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/125157

https://www.mlit.go.jp/tec/accountability/pickup/photos/eitaibashi1.html

 

上記の国交省のサイトには「純国産での震災復興に唯一背いた雄々しき橋梁」という小見出しでの興味深いストーリーが紹介されていた。

(前略)、隅田川6橋を含む震災復興橋梁は、設計から施工・材料の供給まですべてを自前で行うことが特徴であったが、永代橋・清洲橋は例外的に扱われている。河口付近の地盤が軟弱であったために、強固な基礎を設置する必要があり、施工技術が進んでいたアメリカから3人の技術者を招へいして、ニューマチック・ケーソン工法を採用したのである。純国産の復興精神に背くうえ、費用もかさむため反対する声が多かったが、再建の指揮を執った復興局土木部長・太田圓三は、「技術を習い、早く覚え咀嚼し、これを日本の技術として普及するため」と反論して、技術の導入を断行したのである。また、アーチのつなぎ材として初めて高張力鋼を採用しているが、いずれの技術も全国的に広がり、日本の橋梁技術発展に大きく寄与したのである(後略)

 

河口側の歩道を通って、江東区へ戻る。

 

幅広の鋼板の上辺には照明装置が並ぶ。

 

車道の上を覆う鉄骨群の幾何学模様がきれいだった。

 

橋上から隅田川下流方向の眺め。

正面は石川島のリバーシティーで右が隅田川本流、左が豊洲運河になる。

 

※追記 夜のライトアップの様子も載せました。 

massneko.hatenablog.com