8月26日の土曜日、千葉県印西市の道作(どうさく)古墳(1号墳)で現地説明会が開かれたので行ってみた。確認調査で箱式石棺の天井石が現れている。
最寄りはJR成田線の小林駅(そこから徒歩20数分)だが、東京方面からの電車だとかなり大回りになる。
距離的には近いが、高速からは離れているので車でも意外に時間がかかる。
目の前に広い道路があるので見学しやすい。すぐ近くに大井競馬の競走馬を育てる小林牧場がある。
道路沿いにある説明板。
道作(どうさく)古墳群
道作古墳群は古墳時代後期(6世紀後半)頃につくられた古墳群であり、前方後円墳7基、円墳13基の現存する古墳から構成され、北側に利根川を望む標高30mほどの北東に延びる狭い台地上に位置しています。
古墳とは、当時の支配者の墓であり、道作古墳群の周辺の小林地区では、古墳時代中期頃に作られた鶴塚古墳(円墳・昭和46年調査・消滅)の他、小林古墳群(円墳4基・昭和49年調査・消滅)、馬場古墳、駒形古墳など数多くの古墳が確認されています。また、古墳群の東側では、古墳時代の集落跡である駒形北遺跡が発掘調査され、古墳群との関連性が注目されています。道作1号墳
左側に見える古墳は、道作古墳群の中で最も大きい1号墳と呼ばれる前方後円墳です。平成6年度に市教育委員会で測量調査を行い、平成8年度には周溝の範囲を確認するための発掘調査を実施しています。調査の結果、墳長46m、前方部の高さ4m、後円部の高さ3.5mを測り、墳丘裾部には1段の基壇を有し、ボーリング調査では後円部のほぼ中央に、竪穴式の石棺(遺体が収められた埋葬施設)の所在が予測されます。さらに周溝の確認調査では下総型円筒埴輪の破片が出土しています。
平成19年3月現在 印西市教育委員会
左が前方部で右奥が後円部。
くびれ部のあたりにある標柱。
立派な石碑ができていた。
3年前の5月に訪ねたときは足首ぐらいまでの草が繁っていた。
が、昨年12月に歴史広場としての整備が完了していた。
http://www.city.inzai.lg.jp/0000004819.html
説明会開始の15分ほど前に到着。このあとも人が集まって20人ほどの参加者となっていた(10時からの回)
後円部、主軸方向に掘られたトレンチ。
重なった土の層から、築成時に盛土された部分やテラスがあったこと、周溝の大きさなどが確認された。
古墳の周囲は柵とロープで囲まれている。正面が後円部で、右奥に前方部。
屋根付きの休息所も出来ていた。
1号墳の隣によりそうような4号墳。
続いて5号墳。どちらも1号墳の陪塚(ばいちょう)と考えられている。
パノラマで。
1号墳を前方部の左裾側から。
10時になって説明会が開催された。初めに後円部裾のトレンチのところで説明があり、その後に後円部墳頂へ。
十字に掘り残された通路の間から箱式石棺の天井石が露出していた。
埴輪を有し墳頂部に箱式石棺を設ける前方後円墳は印旛郡では類例がなく、築造時期は6世紀中頃に遡る可能性があるそうだ。
土層断面の堆積状況から南側(手前)2枚の天井石を動かした形跡があり追葬が行われたと考えられるが、未盗掘の可能性が高いとのこと。
中の様子が気になるが、今回の確認調査では石棺内は発掘せずに埋め戻される。
横位置で。石棺は全長2.2m、幅85cm。天井石は3枚の筑波石(絹雲母片岩)
1枚単位が通常より大きく分厚いので、ここに眠っている被葬者が当時かなり力を持っていたことが想定される。
斜め前から。左側は箱式石棺の短辺側の側面になる。
上記の左下のアップ。石棺の周りに裏込めの石も検出されている。
石棺の方角は主軸と若干ずれている。
手持ちのスマホの方位計を見ると、石棺の長軸はぴったり東西方向を指しているように思えた。
上記の位置から振り返って。後円部墳頂の先端から見下ろしたトレンチ。
後円部上から見た4号墳と5号墳。
後円部上から見た前方部(ブルーシートの後ろ)
前方部のあたりでは耳環が出土していて、レーダー探査の結果によると木棺の埋葬施設がある可能性があるとのことだった。
後円部斜め前から。上記のブルーシートが、くびれ部上あたりに見える。
長軸上から見た後円部。
園内に設けられたテント内では出土品の展示もあった。
下総型円筒埴輪は、突帯を3条有し、最下段の幅が狭くなるタイプで、6世紀後半に印旛沼・手賀沼周辺に分布している。
前方部から出土した金胴製の耳環も間近で見ることが出来た。
道作古墳の近くの道沿いで、地元野菜が売られていた。
なすやトマトやピーマンが一袋100円。晩御飯でおいしくいただきました。
道作古墳がある歴史広場については印西市のサイトに解説がある。
http://www.city.inzai.lg.jp/0000004819.html
こちらのサイトにも付近の史跡地図が掲載されていた。