墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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中山39号古墳・中山16号古墳・中山15号古墳(鍬形原古墳群⊂中山古墳群) 長野県松本市中山、中山霊園内

前回のつづき。

弘法山古墳を再訪した後、2kmほど離れた同じ丘陵の南斜面にある鍬形原古墳群を訪ねた。鍬形原古墳群は中山古墳群(弘法山古墳を含む)の一部になる。

今回も昇寛さんのサイトのお世話になった。

http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/matumoto_naka15/

 

丘陵中腹の道を進んで中山霊園に向かう。分岐の石柱に「鍬形原古墳入口」と刻まれていた。

 

道の先には広大な霊園があった。

 

案内図があったが、古墳の位置は記されていなかった。

下記の公式サイトによれば、中山霊園は昭和43年(1968)に松本市内の墓所を集中して移転させた市営墓所公園だそう。

http://www.nakayama-reien.com/about.html

 

中山地区の史跡・景観の案内板もあった。縄文からの遺跡が周囲に点在している。

 

霊園の中央にある斜路も広く大きい。

 

その下には蓮の咲く小さな池もあった。

 

南向きの斜面では、どのお墓からも雄大な眺めが得られる。

 

パノラマで。

 

そんな墓地の一画にある中山39号古墳。

 

現地説明板はなく、斜面上側には誤って落ちないように(?)簡単な柵がある。

 

斜面上側から。

 

墳丘は削られ、天井石も無いので、これが古墳とわかる人は少ないのではないか。

昇寛さんのサイトによれば、石室は全長5.1m、奥幅1.3m、入口幅0.95mで無袖式。

 

中に入ってしゃがんで奥壁を。

 

その背面、入口側。

 

39号墳見学後は、整然と並ぶ墓石を見ながら斜面を下る。

 

ところどころに段がある。大きな石もあった。

 

そんな斜面の一画に中山16号古墳の説明板があった。

 

説明板によれば、7世紀後半に築かれた、横穴式石室を持つ径20mの円墳。

松本市特別史跡 中山古墳群
中山16号古墳
所在地:松本市中山植原北
所有(管理)者:松本市
指定年月日:昭和42年2月1日
指定内容
中山古墳群は、旧中山村内にあった全ての古墳を指す総称です。代表的なものとしては、国史跡弘法山古墳、柏木古墳、坪ノ内古墳、向畑古墳群、当古墳が含まれる鍬形原古墳群があげられます。
16号古墳は、15号古墳とともに以前からその存在が知られていて、この斜面に現存する数少ない貴重な古墳です。この中山丘陵の南斜面は、古墳時代後期に現在の霊園のように多くの古墳が造られ、明治の頃までは80数基の古墳が残っていたそうです。
16号古墳は、平成2年および10年に範囲・規模を知るために確認調査を実施しました。この結果、径約20mの横穴式石室を持つ円墳であることがわかりました。しかし、残念なことに永年の耕作や道の改修等によって南側を大きく欠き、羨道部が失われております。また盛土も無く天井石も欠落していて石室が露出しておりました。調査後石室及び羨道部は保護土によって埋め戻しをし、平成16年度には古墳全体を盛土で保護しました。
この古墳の時期は周辺の古墳と同様7世紀後半頃に造られたものと推定されます。

松本市教育委員会

 

下の道から見上げて。 

 

反対側から。

 

斜面に石が顔を出している。

 

真下から見上げて。

 

天井石のように見える石の下にすき間があったのでカメラを差し入れて撮ってみた。

 

埋め戻された石室のようだった。

 

次に、そこから東に150mほどにある中山15号古墳へ。途中に大きな石碑とその周囲に馬頭観音と刻まれた石が置かれた一画があった。

 

きれいな形の15号古墳が見えてきた。 

 

隅が整えられた方墳。上部は上円下方墳的な墳丘に整備されていた。

 

南側に石室が開口する。

 

説明板によれば、7世紀後半に造られた方墳。1辺は20m。

松本市特別史跡 中山古墳群

中山15号古墳
所在地:松本市中山植原北(鍬形原)
所有(管理)者:松本市
指定年月日:昭和42年2月1日
指定内容
中山古墳群は、旧中山村内にあった全ての古墳を指す通称でしたが、現在は中山霊園のある丘陵南麓の鍬形原・蟹堀・西越地区と、隣接する坪ノ内・向畑地籍にある群集墳に限ったものとしても使われています。
中山15号墳は、鍬形原古墳群の内のひとつです。平成7・8年に実施した発掘調査以前は円墳とされていましたが、調査結果により、一辺の長さ20m、高さ5mの方墳であることが判明しました。墳丘の裾には高さ1mほどの外護列石が設けられており周溝がめぐらされています。
石室は南に開口する無袖式で、前庭部があります。玄室は長さ4.8m、幅1.8mで、前後2室に区分されています。羨道は、長さ2.6m、壁高は1.6~1.8mあり、石材の平らな面をそろえて5段から6段に積まれています。
この古墳は、早くから開口していたため、副葬品の出土はありませんでしたが、わずかに残っていた須恵器片により、7世紀後半に造られた古墳と推定されています。
松本市教育委員会 平成29年3月

 

開口部正面。若干左右非対称。

 

しゃがんで撮ると左右の石柱が門のように見えてくる。

 

 巨石の載せた入口。鍵はしっかり閉まっていた。

 

石室内の様子。石に記された番号は500超。

 

昇寛さんのサイトによれば、玄室長4.8m、同幅1.8m、同高1.6~1.8mで、積み上げられているのは中山産の石英閃緑岩の割石とのこと。

 

奥壁をズーム。

 

向かって右側の壁。

 

左側。

 

 墳丘を東側から。

 

墳丘上から見た開口部。

 

石室の真上から、開口部が向かう方角の眺め。左奥は高ボッチ山。

 

スマホでざっと方位を見ると南南東166度。

 

南側。 

 

南西方向は木曽谷への入口。

 

墳丘の背面から。

 

高ボッチ山の麓の向こう側で、左(南東)に諏訪湖・甲斐方向、右(南)に伊那谷へと分岐する。