前回のつづき。
豊島長崎の富士塚を参拝後、池袋氷川神社の富士塚へ向かった。こちらの富士塚も登拝できる日が限られている。
徒歩でも25分ほど(江古田富士塚から豊島長崎富士塚も徒歩25分)と出たが、このときは電車を利用、東武東上線の下板橋駅で降りた。
谷端川北緑道に沿って少し歩く。
細長い敷地には遊具も。
トタン板壁の見事な家。
町の「作品」になっている。
左(南)に折れてゆるゆると上っていくと氷川神社の木立が見えてきた。
なんとこちらの登拝には行列ができていた。
池袋氷川神社の富士の登拝は年に一度、7月1日(正午~日没)に限られる。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/ikebukurohikawa/fuji.html
登山道は5合目あたりから一本道になり、頂上エリアの入場を制限する必要があるので、7,8人ずつの順番待ちとなる。 15分ほど待って山頂に上がることができた。
複数の係りの方が誘導してくださっていた。
登山口にあった説明板。明治45年に築かれている。
池袋富士塚
富士塚は、さまざな理由から富士登山ができない人たちも、これに登れば富士山に登ったのと同じ霊験が得られるとして、江戸時代後期以降、現東京都域および近隣地域に各富士講集団を単位として築造されたものである。高さ約5m、東西幅約13m、南北幅約18mを測り、全山がボク石で覆われている。登山道は正面部分に電光形に設けられており、その道筋ははっきり確認できる。
この池袋富士塚は、明治45年(1912)6月に池袋月三十七夜元講によって築かれたものである。塚内に造立された講碑から、歴代先達の名前や近隣の富士講集団とのつきあいの様子が知られる。一般に、富士塚の石造物は、頂上に奥宮、中腹向かって右には小御嶽神社をあらわす石祠、中腹向かって左には烏帽子岩を配置するのを基本としている。池袋富士塚の石造物は、こうした特長を備えているほか、経ヶ岳(日蓮ゆかりの霊地)を示す題目碑、合目石、講碑、教祖角行像、一対の天狗像、さらには胎内が配置されており、充実した石造物群を構成している。
豊島区に残された数少ない富士塚のひとつとして、また池袋本町地区に展開した民間信仰を考えていくうえでも貴重なことから、平成10年(1998)6月に東京都豊島区指定史跡となり、保存がはかられている。
平成11年3月 東京都豊島区教育委員会
登山道に沿って講碑が並ぶ。
明治45年と彫られたもの。
中腹から見た山頂。数人で固まって登るので途中で写真は撮れなかった。
山頂の祠。
山頂から登山口。列は伸びていた。
登り来る方々。
反対側は切れ落ちて急斜面になっていた。
東側の眺め。
「東京都遺跡地図」を見てみると、この一帯には「氷川神社裏貝塚」の表示がある。
縄文期の貝塚として縄文土器や石斧、石鏃、玉類、土偶が出土し、弥生時代や平安時代の出土物もある。ここは古代から連綿と人々の営みがあった場所であった。
(かつては古墳であることを期待したが、古墳時代の記載はなかった)
http://tokyo-iseki.jp/map.html#
コンクリで固められた急斜面。かなりしっかり手入れされている。
富士塚の東側、柵の外から。
氷川神社拝殿にも参拝した。
拝殿前には茅の輪があった。
さらに下がって鳥居前から拝殿方向。
その背面の参道では、あさがお市が開催中だった。
地震体験車も出て大賑わい。
南端の鳥居から見た参道。
来た道をゆるゆる下って下板橋駅へ戻った。