墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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妙福寺 椙山神社 東京都町田市三輪町

前回のつづき。

下三輪横穴古墳群のある丘の北側麓に長祐山妙福寺という名刹があった。

室町期の1391年に日蓮宗の日億聖人によって開かれた、池上本門寺・鎌倉妙本寺両山の旧末寺で、以来四十余世の歴代聖人にまもられ今に至るそう。

http://www.furusatoen.co.jp/information.html

 

本堂に真っ直ぐ続く参道を上がると門の跡があった。

 

解説板だけが立つ。

町田市指定有形文化財
妙福寺高麗門
時期:江戸後期
指定年月日:1985年(昭和59年?)2月24日
妙福寺山門は桁行一間の高麗門で、正面桁行より背面桁行を大きくして、末広がりに柱を配る。親柱の外側には、築地塀の取付いた痕跡がある。
軒廻りは出桁造りの板軒で、組物を用いず、絵様刳形もなく、全体に簡素な形式である。
建立年代については、様式細部からの推定ができないが、寺伝には1854年(嘉永7年)頃とある。
町田市教育委員会

 

江戸期建立の高麗門だったが、なんと2012年7月に強風で倒壊したことを後でこちらのブログで知った。

http://s.webry.info/sp/masaji36.at.webry.info/201207/article_12.html

 

建っていた頃の写真はこちらのブログにある。

http://blog.goo.ne.jp/zipangu_travel/e/31aeda38f0905595d4c96d2cbfa856d6

 

参道を進んで振り返ったところ。

 

参道は立派な鐘楼門へと続いていた。

 

天和3年(1683年)に鋳造された梵鐘は戦時中に供出されてしまったが、昭和38年に人間国宝の故・香取正彦氏がつくった二代目の鐘がかかっている。

 

鐘楼門の解説。

町田市指定有形文化財
妙福寺鐘楼門
時期:江戸中期
指定年月日:1985年(昭和59年?)2月24日
妙福寺鐘楼門は、上層に鐘を釣った一間楼門で、棟札より1746年(延享3年)に建てられたことがわかる。
この門の建立願主は当時19世円利院日宏聖人で、また建立にあたっては上三輪村甲子講一結列衆9名と上麻生村甲子講一結列衆10名の助力があった。大工棟梁は岡上村惣助、細工棟梁は相州津久井領四良兵衛であった。
当門は市域でただ一つの鐘楼門である。絵様刳形の性質は江戸時代後期の性質を示し、この時代の建物としては全体の比例がよく整っている。なお、屋根はもと茅葺で、近年に高欄を修理したが当初の形式に倣っている。
町田市教育委員会

 

本堂側からみた鐘楼門。

 

こちらが妙福寺本堂。 

 

本堂の解説板。

町田市指定有形文化財
妙福寺本堂
時期:江戸後期
指定年月日:1985年(昭和59年?)2月24日
妙福寺本堂は様式上、江戸時代後期の改建とみられ、1786年(天明6年)の曼荼羅2面に、客殿改建に際し書き改めた旨が記されているから、この時の再建であろう。
平面は正面に幅9尺、両側面に幅6尺の広縁を付し、サ字形に6間を配した方丈形式の堂である。障子は1845年(弘化2年)に新造されたものである。正面の向拝(ごはい)は後世の増築になり、また屋根はもと茅葺で、近年に銅板で葺き替えた。全体に改造が少なく、保存状態も良好である。
当本堂は市域の幕末期における方丈形式本堂の代表例で、内部は木割が太く、また室中間と仏間境の虹梁両端に施した絵様刳形も調子がよい。
町田市教育委員会

 

「後世の増築」とあるが軒下が見事な向拝。

 

横から見た正面。

 

本堂の左手には祖師堂がある。

 

こちらは東京都指定有形文化財。 

東京都指定有形文化財(建造物)
妙福寺祖師堂
所在地:町田市三輪町811
指定:昭和36年1月31日
この祖師堂は、当寺の記録によると、寛文12年(1672)に大田区の池上本門寺の祖師堂を移築してきたものといいます。天井や屋根は後補のものですが、軸部などは桃山時代の様式を伝え、また本門寺の古建築の遺構としても貴重です。
平面は、正面一間を外陣とし、後ろの三間四方の一室を内陣とします。内陣の奥に須弥壇を置き、その上に厨子を安置します。
附指定の厨子は、間口一間、屋根は入母屋造唐破風付で板葺です。万治2年(1659)頃制作され、祖師堂とともに本門寺から譲り受けたものです。
平成22年3月建設 東京都教育委員会

 

桃山時代に建てられ(?)江戸寛文期に池上本門寺から移築された貴重な建物だった。

 

後補とはいえ重厚な屋根。

 

大迫力の飛び石。 

 

 

椙山神社(すぎやまじんじゃ)

妙福寺から白坂横穴墓群へ向かう途中に気になる社があったので参拝した。 

 

赤文字の立派な扁額。 

 

二つ目の鳥居からさらに石段を上がって振り返ったところ。

 

斜面を少し切り開いた境内は古墳跡のような雰囲気があった。

 

あとで調べると境内とその北のエリアは古墳時代から平安時代にかけての遺跡の包蔵地で、須恵器や玉類、陶器が出土したそうだ(東京都遺跡地図より)

確かに墓群があるということは生活跡もあって当然になる。

 

Wikipediaによると「杉山神社」は関東地方の鶴見川水系沿いを中心に雉子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)にのみ存在するそう。

「続日本後紀」(869年編纂)で「枌山神社」と記述される古社で、「延喜式神名帳」(927年編纂)にも「武蔵国都筑郡唯一の式内社」と記される。江戸期の「新編武蔵風土記稿」には杉山神社は全部で72社とある、現在「杉山」(椙山も含む)が付く神社の合計は44社となっているが、どれが本社は比定されていないそうだ。

由来は、杉山に祀られていたという説や樹木の神である五十猛命と杉林に因むという説、船舶材として使用されていた杉の木に因むという説など諸説あるそうだが、出雲民族の末裔(五十猛命)が紀州熊野より海人族を引き連れて伊豆半島や三浦半島に辿り着き、後者を経由して鶴見川水系に住み着いた一族の頭領が杉山神社を創建したという説が大変興味深かった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/杉山神社 

 

大きな神楽殿が。

 

神楽殿の先の「西谷戸稲荷社」 神域のオーラを感じた。

 

境内から東側の眺め。左に200mほどのところを、正面奥の方向・右手から下る丘陵の向こう側へ、谷本川(鶴見川上流)が流れる。

つづく。