墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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藤岡市藤岡歴史館 群馬県藤岡市白石

前回のつづき。

皇子塚古墳の見学後、目の前にある藤岡歴史館を見学した。

 

歴史館は平成16年にオープンした施設で入館無料、休館日は年末年始のみ。84台も停められる駐車場がある。

群馬県藤岡市|文化財保護課文化財保護係

 

屋外に古墳時代後期(6世紀後半)の竪穴式住居が復元(半分骨組み)されていた。

 

内部にはかまども。掘り下げられているので中で立っても頭上に余裕があった。

 

館内は一部の除いて撮影可。

(この日に見て回る場所を欲張ったため、じっくり見て撮る時間がありませんでした・・・)

 

白石古墳群の復元図。このあたりに古墳が数多くある(あった)ことがわかる。

上部は七輿山古墳・伊勢塚古墳を含む七輿山古墳群、その下で接して左へ広がり皇子山古墳や白石稲荷山古墳を含む稲荷山古墳群、右に小さな猿田古墳群、その下の下郷古墳群の4つを総称して白石古墳群となる。

(赤丸は現在も確認できる古墳で、緑は確認できないもの)

 

展示室は2部屋。常設展示では白石古墳群の出土遺物が充実していた。

 

七輿山古墳で出土した、七条突帯を持つ円筒埴輪(右)と朝顔形円筒埴輪(左)

 

平井地区1号墳で出土した金銀装環大刀の再現レプリカ(現物は重要文化財)

 

白石稲荷山古墳出土の円筒埴輪等。

 

藤岡市内の古墳から出土した埴輪や土器。

 

藤岡市内の古墳の説明パネル。

藤岡市内には昭和10年の調査で1200基近い古墳が確認されている。
この地域で最初に出現した古墳は東寄りの神流川流域だったが、中期になると鮎川流域に移って市内最大の白石稲荷山古墳が出現し、6世紀前半の七輿山古墳へと続く。興味深いのは説明の最後の部分。

このころ、「日本書紀」によれば、安閑天皇元年(534年)に武蔵国造をめぐる争いが記されています。この争いに上毛野君小熊(おぐま)が巻き込まれ、翌2年(535年)に緑野屯倉が設定されています。この屯倉の地が現在の藤岡地域と推定されています。

ここは大田区立多摩川台公園古墳展示室 でも展示されていた武蔵国造の乱の舞台であった。

”乱”の前、5世紀前半に築かれた白石稲荷山古墳(175mの前方後円墳)は以前から古墳群が築かれてきたエリアにその大きな側面を向けているが、乱の後に築かれた七輿山古墳は側面を北側・上毛野国全体に向けてヤマト王権の力を誇示している、ようにも思えて大変興味深い。

 

館内にあった、周囲の史跡公園の模型。毛野国白石丘陵公園史跡整備

手前が東で右が北。左端が白石稲荷山古墳、右端が七輿山古墳になる。

 

横穴式石室に関するわかりやすいパネル説明もあった。 

横穴式石室の種類
横穴式石室は、6世紀になり家族墓として普及しました。死者の遺体を安置する場所を玄室と呼び、平面形の違いにより、胴張形、短冊形、徳利形などに分類されます。石室の石材は自然石、割石、切石などが使われ、乱石積、模様積などの積み方があります。特に、伊勢塚古墳をはじめとする模様積石室は藤岡市周辺しか見られない特徴があります。
左上写真■伊勢塚古墳(上落合)胴張形・模様積
左下写真■皇子塚古墳(三ツ木)短冊形・玄室互目積・前室乱石積
右上写真■戸塚神社古墳(上戸塚)徳利形・乱石積
右下古墳■諏訪古墳(藤岡)短冊形・互目積

 

奥へ続く展示。

 

こちらは縄文時代・弥生時代の土器など。

 

土偶を集めたコーナーもあった。

つづく。