墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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亀塚古墳 泉龍寺 東京都狛江市

野毛大塚古墳を訪ねた日に、狛江市の古墳へも足を延ばした。

直線距離で7kmほどしか離れていないが直接結ぶ鉄道がなく、二子玉川から田園都市線で溝ノ口へ出て南武線で登戸へ向かい、そこから小田急線で2駅と、多摩川を2回越えた。しかも登戸駅で急行にとび乗ったら狛江駅は通過だった・・・

狛江駅の北口の様子。

 

駅前の”少女像”は現代の乙女が多摩川の川面を見つめながら古代の万葉の世界をしのぶ姿を表しているそう。

狛江のまち―魅力百選(35)(1079号8面) - 狛江市役所

 

その後ろには駅前なのに鬱蒼とした森があった。

 

狛江弁財天池緑地保全地区として管理される。

 

扉は閉まっていたが、月に一度開放されるそうだ(次回は2017年3月12日)

 

その先にある鐘楼に惹かれて泉龍寺へ。

 

公式サイト雲松山泉龍寺|略縁起によると、永平寺および総持寺を大本山とする曹洞宗の寺で、天平神護元年(765年)に良弁(ろうべん)僧正が、この地にやってきて雨乞いをし、法相宗・華厳宗兼帯の寺を創建したのがはじめと伝えられるとのこと。

隣り合う弁財天池もかつては泉龍寺の境内地だった。

 

本堂側から鐘楼の下を通して南方向。

 

山門側からみた鐘楼。

 

山門の外側から。

そこから南西に250mほどの亀塚古墳を目指した。

 

住宅地で迷い気味になっていると駐車場の奥に土盛りがあった。

 

石碑も見えたが入口は別の場所のようなので、ぐるりと一回り。

 

墳丘横の駐車場の前の道。歩道の幅が広く、桜が植わっていた。

 

反対側の延長上にはむき出しの地面も。かつての川跡か。

 

(ちなみにその先へ回ってみると見事な梅林があった)

 

墳丘の北側の住宅街を進む。

 

細い入口を発見。細道×古墳という組み合わせ。

 

墳丘への階段がついていた。

 

階段の左側。

 

四方を住宅に囲まれて、かろうじて前方部が一部残った帆立貝形前方後円墳だった。

 

亀塚古墳の現地説明板。

亀塚古墳
狛江市南部を中心に分布する狛江古墳群は、南武蔵でも屈指の古墳群として知られています。これらは「狛江百塚」ともよばれ、総数70基あまりの古墳があったとされています。
そのなかでも、亀塚古墳は全長40mと狛江古墳群中屈指の規模を誇り、唯一の帆立貝形前方後円墳で、5世紀末~6世紀初頭に造られたと考えられています。昭和26・28年に発掘調査が行われ、古墳の周囲には、周溝があり、墳丘には円筒埴輪列が廻らされ、前方部には人物や馬をかたどった形象埴輪が置かれていることがわかりました。
人物を埋葬した施設は後円部から2基(木炭槨)、前方部から1基(石棺)が発見され、木炭槨からは銅鏡、金銅製毛彫飾板、馬具、鉄製武器(直刀、鉄鏃など)、鈴釧や玉類などの多数の副葬品が出土しました。特に銅鏡は中国の後漢時代(25~220年)につくられた「神人歌舞画像鏡」で、これと同じ鋳型でつくられたものが大阪府の古墳から2面見つかっていることから、この古墳に埋葬された人物が畿内王権と深く結びついていた豪族であったと考えられています。また、金銅製毛彫飾板には竜、人物、キリンが描かれていて、高句麗の古墳壁画との関係が注目されました。
現在は前方部の一部が残るのみですが、多彩は副葬品や古墳の規模・墳形などからみて、多摩川流域の古墳時代中期を代表する狛江地域の首長墳として位置づけられます。
平成14年3月 狛江市教育委員会

 

写真部分のアップ。

全長40mだと野毛大塚古墳(82m)の半分ほどだが、狛江市のサイト・狛江の歴史にある別の写真には、6.9mの高さがあった堂々とした墳丘が写っている。

 

石碑は大きい。 

 

揮毫は徳富蘇峰によるものだそう。亀塚古墳 - 狛江市役所

 

一応パノラマで。

 

反対方向。

 

最初に見たのはこちらの駐車場から。

 

墳丘への通路。

つづく。