2月5日までだった企画展に、終了間際に訪ねた(少し長い報告になります)
博物館は横須賀中央駅から徒歩10分の丘の上。
規模の大きな博物館で常設展も盛り沢山だったが、まずは特別展示室へ。
大きな特別室¥に多くの資料やパネルが展示された充実した企画展だったが、残念ながら図録はなかった。
最初のパネル。
三浦半島の海岸線は天然に恵まれ、古墳時代には関東や東北地方への中継地として重要な役割を果たしていたと考えられ、遺跡からは人びとの広汎な交流がうかがえるそうだ。
半島の古墳時代の遺跡分布図。赤が墳墓で黄が生活遺跡。海に突き出たところや入江に目立つ。
最初のパネルから興味深い。
三浦半島では弥生後期以降、湾や入り江を見下ろす高台に大規模な集落が”突如出現”したが、古墳時代前期とともに”途絶”してしまう。
遺物としては同時期の海浜遺跡や海蝕洞穴遺跡も含め”東海地方の土器”や”紀伊半島西岸の漁撈用具”が出土することから、遺跡は交易や加工の拠点として東海以西の集団が利用していた可能性が高く、方形周溝墓や前期古墳の被葬者も西方の集団だった可能性が高いそうだ。
弥生後期の方形周溝墓(高原北遺跡)等からの出土物。
左下の「庄内式土器」は大阪府豊中市の庄内小学校で発掘されてその名がついた。
高原遺跡は三浦半島西岸、相模湾に面した佐島地区にあり、弥生時代後期の竪穴住居300軒近くの跡と環濠が見つかっている。
三浦半島東岸では、浦賀水道に面した上の台遺跡(鴨居2丁目)で同時期の住居跡が141軒出土した。
上の台遺跡からは多量の東海以西の土器と、製塩土器、鉄剣、瀬戸内東部の土錘なども出土。
口縁がS字形の土器は、弥生後期後半から古墳前期にかけて愛知県西部から三重県北部の伊勢湾西岸域で盛行した炊飯用の台付甕とのこと。
剱埼近くの海蝕洞穴、大浦山洞穴遺跡からは弥生後期後半から古墳前期にかけての大量の灰や炭化物と鰹の骨が検出され、”海産物加工場”であった可能性もあるとのこと。
そこから出土している伊勢湾西岸や北陸(?)の土器。
古墳時代前期の、神奈川県内を代表する古墳は長柄桜山古墳。海から見るとただの山だが、山頂部に90m級の前方後円墳が2基眠る。
個人的に十指に入る素晴らしい古墳。関東近郊の古墳 私的10選
立地がよい。これまで2度行ったが書いているとまた行きたくなってきた。
ケース内左列中央が出土した長柄桜山1号墳の円筒埴輪片。
弥生後期から古墳時代前期(~中期)にかけての古墳・墓の分布地図。
次は古墳時代中期のパネル。
中期に入ると大規模集落は途絶し、古墳そのものは少なくなる。
が、海浜部の遺跡では引き続き大量の土器類が出土し、入り江奥に小規模集落が出現して初期須恵器を検出することから、東海以西の集団は三浦半島の湾や入り江を「物資輸送の中継基地」として利用するようになったと考えられるとのこと。
横須賀市長沢の長沢1号墳のパネル。
あとで位置を検索したら、こちらの 京急長沢駅【TOWN CLIP】おすすめSPOT情報に長沢公園にレプリカがあると記されていた。
鉄鏃や剣などの出土物。
ビーズのような滑石製臼玉もあった。
それらが出土した状況で展示されていた。どちらが現物でどちらがレプリカかはわからなかった。
上記の「出土状況」展示に関する説明パネル。
蛭田古墳(六万本古墳)のパネルでは1993年に撮られた墳丘の写真があった。
前出の、前期古墳分布図の拡大。
後で上記の4番のあたりをグーグルアースで拡大したら、畑の真ん中に残った墳丘らしきものが写っていた。近寄るのは難しそうだが。
蛭田古墳の出土物。「袋状鉄斧」は初めて聞いたが、柄を差し込む”袋部”があるのだそう。あいち埋文 - こだわりの一品
3番目のパネルは古墳時代後期に入っての展開。
古墳時代後期に入ると海浜遺跡で関東内陸部産の土器が”爆発的に”増える。
来航する出身集団の舟や乗組員の世話をするために関東内陸部各地から派遣された集団の存在が想定され、津の共有化や東海以西も含めた複数の派遣集団があったと思われるそうだ。
なたぎり遺跡は追浜公園のそばにあった遺跡で、関東内陸部を中心に東海・北陸地方の土器が多量に出たが住居跡が確認されないので、そこは”津”であった可能性が高いとのこと。
関東内陸部から搬入された「須恵器坏蓋模倣土師器坏」
群馬県産(?)の須恵器。甕は蓼原遺跡出土。
大塚古墳群は、古墳時代後期の三浦半島最大の首長墓群。
6世紀後葉から7世紀初頭にかけて、横須賀市池田町の丘陵上に前方後円墳2基、帆立貝形前方後円墳1基、円墳3基が築かれた。
全長31.3mの1号墳(大塚古墳)出土の鉄の刀や鏃、ガラス小玉。
こちらは4号墳からの出土品。
大塚古墳群から出土した須恵器は静岡県湖西市の湖西窯産。大津の大津古墳群出土物と比較できるように展示されていた。
古墳時代後期の古墳分布図。
4番目のパネルは「舟で運ばれた埴輪」について。
内容が非常に興味深いので下記に。
現在までのところ三浦半島内で埴輪の出土が確認されたのは15遺跡ですが、古墳またはその可能性が高い遺跡は9遺跡あります。
このなかには、埼玉県内・群馬県内など製作地が推定されている後期古墳の埴輪もあります。いずれも荒川あるいは利根川を下り、東京湾に出て海路で三浦半島へと輸送したと考えられますが、これが後期における関東内陸部からの水上交通路であったことをしめしています。
また、これらの古墳は津を望み、単独墳として築造されているものが多いことから、被葬者は在地の首長ではなく、関東内陸部の各地から津に派遣された集団の長であった可能性が高いと考えられます。そのため、古墳築造に際し出身集団の埴輪樹立を望んだものと思われます。
多くの埴輪が出土した蓼原古墳は久里浜駅の南の神明公園と神明小学校の境にあったらしい。古久里浜湾に面した砂堆上に築造された全長28mの帆立貝形前方後円墳だったとのこと。
蓼原古墳出土の埴輪。
琴を弾くこちらのお方。
帽子や胴着、靴の模様もきれいに残る。
前出の大きな須恵器の甕も群馬県産のようなので、毛野国の方だったのか。
どんなお顔だったか。
立ち並ぶ円筒埴輪。
この三角の紙の意味がわからなかった。
城ヶ島に面した台地端にあった向ヶ崎古墳(大椿寺裏古墳)は、中世の城郭築造の際に削平された模様だが、城ケ島大橋の工事で埴輪が出てその存在が確認された。
向ケ崎古墳出土の埴輪。昨年、土器復元を体験したので、パーツが少ないものの復元は大変だっただろうとリアルに感じられた。
埴輪出土遺跡の分布地図。
こちらは前方後円墳の分布地図。
さらにこちらは横穴墓の分布地図。
関東の横穴墓は、6世紀後葉~末葉に出現した。
ここも大変興味深かったので下記に。
横穴墓は、5世紀後半代に北部九州で出現した家族を単位とした群集墓です。固い岩盤の崖に横穴を掘る高度な技術を有することなどから、渡来系集団の共同墓地と考えられています。
6世紀中葉頃には出雲や河内などに伝播し、6世紀後葉~末葉頃には東海・関東を経て、東北地方南部の太平洋岸や主要河川の流域まで急速に広まります。
各地の初期横穴墓は北部九州の横穴墓と酷似することから、間接的な墓制の伝播ではなく、直接派遣された北部九州の渡来系集団が構築した可能性が高いといえます。分布状況や、大海原を渡る高い公開技術をもつ集団であることを考えると、三浦半島の横穴墓の被葬者たちは、遥か九州から舟に乗ってやってきたのではないでしょうか。
別のパネルでは、6世紀中葉頃に北部九州が畿内王権の直接支配を受けるようなり、北部九州の水運に長けた渡来系集団が畿内王権の命を受けて東日本に派遣されたとの説を紹介していた。
長浜横穴墓の紹介。
そこからの出土品。
吉井城山横穴墓群は「所在した」とあるので現存しないものか。
滝ヶ崎横穴墓群は写真は古いが「所在する」と書かれている。
その出土品。
横穴墓群は写真パネルがいくつもあった。
そして6番目のパネルで「古墳の終焉」に。
三浦半島最後の古墳と考えられる「かろうと山古墳」
直径13mほどの円墳で7世紀中葉前半の築造。
昭和27年の発掘当時の様子のジオラマがあった。
須恵器片や直刀、鉄鏃などの出土品。
かろうと山古墳には、金銅製品も副葬されていた。
西日本を中心に14例しか類例がない金銅製鑿状鉄製品を含む豊かな副葬品により、被葬者は西日本とも関係が深い有力者であったと思われるそうだ。
古墳時代は仏教寺院の建立をもって終焉となった。
宗元寺(跡)は7世紀後半代に建立されている。
その出土遺物。
律令体制が浸透すると、地位や身分が畿内王権により保証されるようになり、それまで地位や身分の表象手段であった墳墓を築造する必要性がなくなったため、古墳はその役割を終えてしまった(との説)
8番目のパネルでは三浦半島が「海の十字路」として国家の形成と展開に寄与したことが謳われていた。
最後のパネルには、本展のタイトルである、横須賀の古墳はだれがつくったかがまとめられていた。
要点だけピックアップすると下記になるかと。
・海路の主要な中継地であった三浦半島には、出身地から来航する舟を世話するために派遣された集団が駐在し、集団の長が亡くなると出身集団の墓制を採用した墳墓を津の付近に築造した。
・墳墓の多くは東海地方・畿内・北部九州など、他地域の集団がつくった「外来系墳墓」だった。
企画展のタイトルどおり、ここ三浦半島において「古墳はだれがつくったか」 がよく理解できる素晴らしい展示でした。
(よって、詳しく紹介させていただきました)