前回のつづき。
2番目の探訪地は菖蒲池古墳。 朝に訪れた甘樫丘展望台から1km程、同じ丘陵の南西端に位置する。丸山古墳からも東に1km弱しか離れていない。
日当たりのよい斜面を歩いていく。
鍵のかかった小屋と説明版があった。
国史跡・菖蒲池古墳の現地説明板。
菖蒲池古墳
国指定文化財 昭和2年4月8日
藤原京の朱雀大路の延長線上に築かれた横穴式石室を埋葬施設とする古墳です。墳丘は、封土がほとんど流出し二枚の天井石が露出しています。そのため形状がはっきりしませんが、方墳か円墳のいずれかと考えられます。形が判明していないため、規模についても確定には至っていませんが20m前後が想定されています。古墳の北側は丘陵を切断して古墳築造時の痕跡と見られる崖状の地形が続いています。
石室は、羨道部の大半が埋まった状態であるため全長は不明です。玄室はやや面の整った花崗岩の巨石を二段に積み、石の隙間に漆喰を詰めた半切石の両袖式からなる構造で南北に二基の家形石棺が縦一列に安置されています。家形石棺は屋根の部分が極めて特徴的で、二基とも四柱造りの屋根をもつ精巧なもので北棺の蓋は軒が平らですが、南棺は凹にしています。身では、北棺が四隅に柱状の彫刻を、南棺では上下端に帯状の造り出しが見られ両棺とも内面に漆が施され最高級の石棺に仕上げられています。橿原市教育委員会
市のサイトにも解説があり、 2010年の発掘調査によって一辺約30m・二段築盛の方墳であることが明らかになったことが、調査報告とともに記されている。
坑道入口のような雰囲気。
南京錠が開きます。
足元の石棺がきれいに見えるようになった。 石棺は本体部分の周囲が埋まったままの状態。それでも下とは1m以上の段差になっている。
立っている位置は、もと玄門部の上にあたり、この背後に羨道が続いていた。
フラッシュで。石棺の内側には水が溜まっていた。
この日は特別に下りて見学。
こちらの石棺は手前側が割られて持ち去られた状態。
石棺の蓋は棟飾りのような形状、石棺内側には漆が塗られていて、他に類例がない特徴を持つとのこと。
内部に下りると奥にもうひとつ石棺が見えた。巨石を組み合わせた石室にすっぽりと収まっていた。
フラッシュで。後ろの石棺の蓋は寄棟造りの屋根のような形がきれいに残っている(手前のような凹形ではないが)
2基は同じ形状をもつことから、同一工人の手によるもので築造当初から並べて安置する計画があったと推察されている。
被葬者については蘇我氏の邸宅を構えていた甘樫丘の麓にあたることから、蘇我蝦夷・蘇我入鹿の双墓(オヤコフン!)との説があるそうだ。
こちらのブログでは、蘇我倉山田石川麻呂と蘇我興志の親子の説が紹介されている。
石の隙間は漆喰で埋められている。
横から見ると小さな登り窯のような小屋組み。石室保護のシートが掛かかる。
この日のガイドの方は2010年の発掘調査時に関わられていて、当時見つかった墳丘裾の角のあたりを教え頂いた。
そこと接するように7世紀末・藤原宮期の整地跡があり、墳丘の基底石を再利用したと見られる石組み溝が確認されている。
2010年の現地説明会資料に詳しい平面図・断面図が載っている。
http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/hakkutsu/documents/explanation.pdf
上記には「築造から1世紀も経たない藤原宮期頃に、墳丘の一部を破壊しその隣接地を利用している事は、菖蒲池古墳の被葬者や築造時期を検討する上で、興味深い材料と考えられます」と記されていた。
上記の写真の先に広がる眺め。南西方向になる。丸山古墳は右枠外の方向。
上記から左に視線を移すと、真南の方角に野口王墓(天武・持統天皇陵:中央の半円の木立)
余韻に浸りつつ次の場所へ。
上記と道を隔てた先が明日香村。
目の前は明日香養護学校で、小山田遺跡が発掘された場所。
小山田遺跡では最近になって一辺約50mの方墳と見られる遺構が見つかっている。
舒明天皇か蝦夷の?巨大古墳説強まる 奈良の小山田遺跡:朝日新聞デジタル
2015年1月の現地説明会の様子もこちらのブログに紹介されていた。
50mを超える巨大方墳『小山田遺跡』現地説明会@明日香村 (by 奈良に住んでみました)
歴史の1頁を記すような遺跡が目の前のそこここにあり、古代の都にいることを実感した。
つづく。