墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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旧柳澤家住宅 東京都世田谷区大原

今回も東京文化財ウィーク2016での特別公開案件。

11月6日に世田谷区大原の旧柳澤家住宅を訪ねた。戦後間もない昭和26年に建てられた国登録有形文化財の小住宅。 

 

京王線の代田橋駅で下車し、環状7号線を南に大原2丁目交差点。

 

井の頭通りと環七通りが交わる大きな交差点。その南東すぐ裏手が目的地。

 

大通りのそばだが、高い建物で隔てられているせいか静かになる。生け垣で囲われた一画を回り込んでいく。

 

敷地の南側に門があった。 

 

植木の間のアプローチを進むと玄関があった。

 

こちらは庭の散策路から見た主屋。

 

貫や束を見せている切妻。

 

テラスの前に説明板があった。

国登録有形文化財(建造物)
柳澤家住宅主屋 一棟
建築年代:昭和26年(1951)/昭和54年(1979)改修
建築面積:52.282㎡
設計者:伊東安兵衛
柳澤家住宅は、玄関・ホール・四畳半に納戸(旧台所)と便所を配した小規模な住宅です。外観の特徴は、庭に面し化粧貫を用いた妻を見せているところです。内部のホールは、暖炉がある洋室でありながら床構えをもち、天井に民家風の梁を組んでいます。ホールと四畳半に設けられた段差、三枚戸の襖とガラス戸の仕切りなどは、昭和20年代、戦後復興期の小住宅によく見る間取りです。建物の内外に伝統民家の構成を引用した建物で、戦後に民家風住宅を多く手がけた伊東安兵衛の作風をよく現しています。
問い合わせ先 一般財団法人柳澤君江文化財段
平成25年6月 世田谷区教育委員会

 

テラスの床は大谷石。 

 

中に入ると玄関の床も大谷石だった。 

 

玄関に置かれていた説明シート。 

柳澤家の歴史と柳澤邸の特徴
柳澤家は、宝暦4年(1754)頃より現在の世田谷区大原に在住し、現在に至る。柳澤邸は、昭和26年(1951)に建てられた約13坪(約43㎡)の小住宅である。施主である柳澤と設計者・伊東安兵衛は、いわゆる民芸建築への関心が高く、その特徴は大きな切妻造りの屋根、幾重にも組まれた貫と束の意匠、また堅羽目板と押縁下見板張りの仕上げに、さらには大谷石を使用した玄関等に現われている。
柳澤邸は、戦後復興期に建てられた小住宅と共通の要素を多く持ちながらも、座敷飾りである床・棚・書院を持つ応接間を洋風にしたり、外観に民家の意匠を用いたりと、戦前に興った民芸運動が戦後にも影響を及ぼしていたことを示す興味深い例として位置づけられる。
広大な敷地内には、桜・柿・梅・銀杏・山茶花・椿・松・楠・栗・紅葉・柚・金柑・榊・竹・ツツジなど、四季折々に花や実、紅葉が楽しめる樹木が多く植えられている。

旧柳澤邸の設計者:伊東安兵衛(1908~1972)
東京生まれ。法政大学哲学科卒業後、東銀座三原橋に喫茶店「門」を開く。その後、民芸家具等を扱う「たくみ」に入社。昭和28年頃より、家具設計のため松本市を度々訪問し、家具や木工の多くのデザインを担当する。他方、建築設計にも多く携わり、合掌造りの郷土料理店「ふるさと」をはじめ、民芸調の建物を残した。

 

屋内に見どころはこちらの応接間と、奥の四畳半。 

 

それほど広くはないが、家具が部屋にフィットして狭くは感じなかった。

 

民芸品のような椅子。 奥の四畳半は床面が20cmほど高くなっていて、双方の部屋に居る人同士の目線の高さの差を和らげている。

 

四畳半の部屋。立つとさすがに狭く感じる。 

 

そこから見た応接間。

 

二人掛けソファの後ろには暖炉(の飾り?)もあった。

 

天井には梁を見せている。

 

窓と反対側壁面は、床の間風の意匠。

 

四畳半の隣の洗面所。

 

 主屋の背面。こちらの壁面でも梁と束を見せていた。

 

 

 

裏庭の井戸。井戸は表側の庭にもあった。 

 

保存樹木になっている大木。

 

柿が色づき始めていた。 

 

紫のきれいな実。 

 

主屋に面した庭は広い芝生の周りに樹木が植えられている。 

 

庭を廻る道。

 

主屋の東側に別の家屋が建つ。 

 

全体の見取り図。

 

2階屋は、当主で書家の故・柳澤君江氏の仕事場だった。

 

2011年に92歳で亡くなられた。

 

さまざまな書体の作品があった。

 

額縁のような窓。 

 

この日は2階でお茶の試飲会が催されていた。下北沢のお茶屋さんに話を伺いながらの30分。宮崎県の興梠(こうろぎ)さんが栽培したやぶきた茶で釜炒りしたもの。

一人2gを計って70度の湯に1分。ほんのり甘さが感じられるおいしいお茶だった。

 

お茶の余韻を感じながら帰途についた。

代田橋駅との間に、玉川上水緑道があった。甲州街道沿いの尾根道を南北から谷筋が入るので蛇行して迂回している。

 

緑道の、環七通りとの交差部分は地下道になっている。

 

道路下の配管がむき出しになっていた。

 

その上は「大原橋」

 

親柱も残っている。

 

春は桜が綺麗だろう。

 

緑道公園内に大きなお地蔵様があった。

 

緑道は代田橋駅の近くで開渠になった。

 

煉瓦と石のアーチ橋。

 

太い配管の下からのぞくと先にも橋が見えた。

 

その橋から北側。すぐ先を京王線が跨ぐ。

 

そこから振り返ったところ。緑道下暗渠への穴が見えた。

 

緑道の看板。アーチの橋は「ゆずり橋」だった。

開渠区間は甲州街道までの130mほどだが、昔の面影を残す貴重な空間では。

 

無残な説明板。

 

説明部分は残っていた。

玉川上水の歴史が書かれているが、代田橋駅付近のこの短い区間だけ、昭和61年(1986)に20年ぶりにふたを開けて水を流すようになったとのこと。

ゆずり橋に並行する太いパイプは、代田橋西側の和田堀給水所から代々木方面へ向かう水道管だった。

 

その水道管が埋まっているであろう給水所への道。

 

代田橋駅へは短い商店街を進む。

 

京王線代田橋駅は、懐かしい雰囲気の駅舎だった。