前々回のつづき。
こちらも東京文化財ウィーク2016の一環で、ここに来る前に見た東京若葉キリスト教会と同様に新宿区文化財現地特別公開(通常非公開)の案件。
信濃町駅から高田馬場駅へ出て、西武新宿線で2つ目の中井駅で下車した。この辺りの西武新宿線は神田川が台地を削った谷筋を通るので、南北の住宅街へは坂道を上るかたちになる。
旧島津家住宅アトリエへは三の坂通りを上がっていく。
坂上から振り返ったところ。
上がって左折した先に人が集まっていた。
入口付近にあった説明板。
国登録有形文化財(建造物)
旧島津家住宅アトリエ
所在地:新宿区中井2-19-16
登録年月日:平成23年7月25日
旧島津家アトリエは、昭和7年(1932)以前に建てられた、木造平屋建て(中二階)のアトリエ建築である。島津製作所の三代目島津源吉の長男一郎のアトリエとして建てられたもので、吉武東里(1886~1945)の設計と考えられる。島津家はこの辺りに広大な土地を所有し、そこに和洋折衷の邸宅のほか、娘鈴子夫妻(夫は洋画家刑部人)の住宅(吉武東里設計、平成18年解体)と息子一郎のアトリエが建てられた。その後、島津家は京都に本邸を移したため、敷地・建物は昭和17年(1942)に売却された。
内部は、1階中央にアトリエ、西側に応接室と洗面所・トイレ、東側に書斎と風呂が配置されている。アトリエ南側にはバルコニーがあり、その上にアトリエを見下ろす中二階が設けられている。アトリエ特有の北側の採光窓は天井まで高さがあり、垂直に3段、水平に9連の片開き窓となっている。
平成26年3月 新宿区教育委員会
普段は閉じられている門のすぐ先が旧アトリエ住宅になる。
玄関脇を通って庭の方へ回る。暖炉の裏側を通っていく。
外壁は木造モルタル塗りの荒らし物仕上げ(引擦り仕上げ)、土台はコンクリートに大谷石を貼って仕上げている。
庭に面したバルコニーが見学者入口になっていた。
1階バルコニーの上には中二階があり1階アトリエを見下ろせる構造。アトリエの西(左)に応接室と洗面所・トイレが、東(右)に旧書斎と風呂が置かれる。
スリッパに履き替えて中へ。
モダンなデザインの板扉。
バルコニーから応接室への扉。
扉の木彫り。
アトリエは多くの見学者で賑っていた。
バルコニーの反対側・北面には背の高い窓が9連。アトリエらしい採光。
白漆喰塗りの天井と壁はカーブで一体化していて広々とした印象だった。
上は中二階部分。
応接室の暖炉。
天井の梁を表面を手斧目仕上げた、根太天井のようになっている。
旧書斎の戸棚。
その向かいに中二階への階段があった。
天井の低い中二階。
足元からアトリエの様子が見えた。
以下はいただいた案内より。
旧島津家住宅アトリエ(旧島津一郎アトリエ)
所在地等:新宿区中井2-19-16 中村邸
建築年代:昭和7年(1932)1月以前
施主:島津源吉
設計:吉武東里
構造形式:木造平屋建て中二階、切妻造り
登録月日:平成23年7月25日 国登録有形文化財(建築物)に登録
アトリエの歩み
旧島津一郎のアトリエは、島津製作所三代目・島津源吉(1877~1961)の長男で、洋画家であった島津一郎のアトリエとして建てられました。
設計者は、署名等はありませんが吉武東里(1886~1945)であると考えられます。吉武は大正8年(1919)に国会議事堂の競技設計に同志とともに応募し、採用となった建築家です。
源吉は当時、このあたりに一万坪もの広大な土地を所有していました。そこには和洋折衷の邸宅の他、娘・鈴子夫妻(夫は洋画家・刑部人)の住宅(昭和6年建築、吉武東里設計、平成18年取り壊し)、息子・一郎のアトリエが建てられました。島津家はその後、昭和17年(1942)に京都に本邸を移したため、敷地・建物は売却され、何代かの所有者の変遷を経て、現在に至っています。なお、小説家・林芙美子も、この時島津家から土地を買い受けた一人です。
バルコニーから見た庭。
水の流れもつくられている。
現在のオーナーの住まい。旧アトリエは昔のままに残されている。
台地上、斜面の端にあるので、南隣は屋根が目の前になる。
庭の紅葉はまだ緑だった(11/3)が、椿が咲きはじめていた。