墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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がま池 東京都港区元麻布2丁目

前回のつづき、かつ数回前のエントリ・元麻布の細道のつづき。

近くまで来ていながら、近くにあることに気づかなかった「がま池」を目指した。

以前にブラタモリでも紹介された、麻布台地上の謎めいた池。

グーグルマップに示されるので近づくのは容易だった(が、水面を見るのはあまり容易ではなかった)

 

西町インターナショナルスクールの西側、台地についた谷状の地形。

 

そこから左に視点を移して。正面の台地上が麻布中・高。

がま池はこの左方向、北からの谷筋の谷頭にあたる場所にある。

 

西町インターナショナルスクールの西側の通り。

右側にがま池があるが家並みで見えない。

 

 駐車場の奥が池だが、高い壁がある。

 

回り込んでいくと、南西側の一画がコインパーキングになっていた。

 

端の柵まで行ってズームすると、なんとか水面が見えた。

 

周囲のマンションを水に映す。

以前はこの場所にもマンションがあって一般人が水面を見ることはできなかったそうだ。麻布台地の上に今も水が湧くのは神秘的だが、”隠れている”ことがその価値をより高めているように思われる。

 

そのまま反時計回りに、がま池の周りの住宅街を歩く。地形は全体に北側に傾斜する。

池の北側に位置するお宅(道の右側が池)

 

生け垣の中をよく見ると・・・

 

がま池の説明板があった。

 がま池
「がま池」のあるこの土地は、江戸時代には五千石の旗本、山崎税助治正の屋敷であった。言い伝えによると、同家の家来が屋敷内の夜回りに出た時、大がまのために殺された。そこで治正はがま退治を決意して寝たその夜、がまが白衣の老人となって夢枕に立ちその罪を深くわび、今後当家の防火に尽くすことを誓った。
その後、文政のころ、高台下の古川岸に火災が起こり、この付近まで延焼して来た時大がまが現われ、池の水を吹きつけて火を防いでくれたといわれている。
怪奇な伝説が生まれたこの池も、今ではなかば以上が埋めたてられたが、昔の面影はわずかに残っている。
昭和50年12月 東京都港区教育委員会

 

説明板の立った昭和50年頃はまだ「昔の面影」があったのだろう。

 

ブラタモリの放送内容については、こちらのブログで詳しく紹介されていた(2009/11/22の回)

ブラタモリ 第5回 「三田・麻布」|シャブリの気になったもの

 

放送にあった十番稲荷神社へは行きそびれてしまったので再訪したい。神社の公式サイトにがま池伝説(と御守りの由来)が詳しく書かれていた。

がま池とかえる御守り・上の字様 | 十番稲荷神社

江戸時代 文政4年(1821)7月2日、麻布古川あたりより始まった大火で、このあたりが殆ど焼けてしまった時、なぜか備中成羽(今の岡山県西部)の領主、山崎主税助(やまさきちからのすけ)の屋敷のみが類焼を免れました。これは邸内の池の大かえるが、水を吹きかけて猛火を退けたからであると言われ、山崎家に御札を求める人々があとを断ちませんでした。 そこで山崎家では文政4年の9月より、「上」(じょう)という一字が書かれた御札を万人に授けるようになりました。この御札は「上の字様」と称され、防火・火傷のお守りとして信仰を集めました。

その後「上の字様」は末広神社(当社の前の社名)を通して授与されるようになりましたが、戦後中断してしまいました。しかし、「上の字様」の復活を願う声は多く、昭和50年8月より「かえるのお守り」として復活し、かえるの石像も奉納されました。近年では、防火・火傷のお守りとしてだけではなく、「かえる」の語音から旅行や入院の際に無事かえる、元気でかえる、あるいは、遺失物がかえる、若がえる等のお守りとして貴ばれております。

その後、「上の字様」も神社に伝わる史料を基に、ほぼそのままの姿で復刻し、防火・火傷除けに諸災難除けの御利益も加わった「上の字御守」として平成20年元旦より授与しております。

かつて広さが約五百坪(1650平方メートル)あった池はがま池と称され、四面が深い樹林に囲まれ、いかなる日照りにも涸れたことがなかったと言われています。がま池の現住所は港区元麻布で、現在では大部分が埋め立てられ、わずかにその一部を残すのみになってしまいました(マンションの敷地内の為、一般には公開されておりません。住民のご迷惑にもなりますので見学はご遠慮下さい)

 

がま池のかつての様子はこちらのブログで詳しく解説されている。元麻布の細道は、かつての流路だった。

六本木、麻布十番、元麻布の川跡(1)がま池からの流れ : 東京の水 2009 fragments