墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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須曽蝦夷穴古墳 石川県七尾市能登島須曽町

前回のつづき。

院内勅使塚古墳の見学後、北へ向かい和倉温泉を抜けて能登大橋を渡り、須曽蝦夷穴古墳を目指した。車で30分ほどの距離。

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能登大橋は爽快な気分になる橋だったが、写真を撮る場所がなかったのでストリートビューで。

能登島は七尾湾に浮かぶ面積約47平方キロの島。山の手線内の3分の2ほどの大きさになる。

 

能登島須曽町に入ると古墳への案内が出てきて、表示に従って山へ上がっていくと突き当たりに駐車場や資料館が整備された古墳公園があった。

 

車を停めて遊歩道へ。

 

突き当たり、七尾湾を見下ろす景勝地に整備された墳丘があった。

 

国史跡・須曽蝦夷穴古墳(すそえぞあなこふん) は古墳時代後期(7世紀中頃)の方墳。

最大の特徴は南面に石室入口が2つ並ぶ独特の形。

(墳丘前のスペースに余裕がないので丸みを帯びたパノラマになった)

 

実際はこのように一直線。 各辺は東西南北にきちんと揃っている。

 

見学路の先はすぐ崖になっていて、その先に七尾湾が見通せる。

 

右が雄穴石室、左が雌穴石室と呼ばれている。

 

陶板でつくられた解説板。

 

平面図。東西18.7m、南北17.1mの長方形。

 

発掘調査時の写真も。

 

古墳についての解説。 石の積み方など、朝鮮半島(高句麗)の墳墓に通じる特色を備える。

須曽蝦夷穴古墳
須曽蝦夷穴古墳は古墳時代の終わり頃(7世紀中頃)に築かれた有力者の墳墓である。
墳丘は、東西約18.7m、南北約17.1mの方墳で、正面の墳裾に低い石積みを巡らした典型的な終末期古墳の様式をもつ。
一方、墳丘内部には付近の海岸から運んだ安山岩板石で一対の墓室(横穴式石室)が造られ、横幅の広い奥室(玄室)やドーム形に持ち送る天井など、朝鮮半島の墳墓に通じる特色を備えている。
このような石室をもつ終末期古墳は他に例を見ず、日本の対外交流史を考えるうえでもきわめて重要な古墳である。

 

保存整備工事の写真説明もあった。

須曽蝦夷穴古墳の整備は、崩れかけた石室を修復し築造当初の姿に戻すため、能登島町が平成元年度(1989)から平成8年度(1996)にかけて実施した。
修理にあたっては、事前に考古学的・土木工学的な調査をおこなうとともに、土を石を材料にした伝統的な工法を採用し、忠実な復元に努めた。

 

まずは右側の雄穴へ。

 

平たくした石を煉瓦のように積み上げた側壁。

 

この羨道部分はしゃがまないと進めない高さ。

 

石室は左右にT字形に広がっていた。

奥壁は積み上げられた石の壁で一枚岩ではない。

 

柵は玄室内側に少し入ったところにあるので、玄室内でも立てる。

持ち送りの形で積み上げれらた見事な天井。

 

隅の床から天井。隅三角持ち送り技法がわかる?

(よくみるとカマドウマが写りこんでいた) 

 

復元工事の際に付けられた番号が残っている石もあった。

 

外は暑かったがひんやりとした室内だった。

 

次に雌穴へ。雄穴より若干小さな造り。

こちらは柵がなく、そのまま玄室へ入れるようになっていた。

玄室は逆L字形に右側へ少し続いている。

 

雌穴石室の説明板。

雌穴石室
雌穴石室は雄穴石室と同時につくられた横穴式石室である。石積み技法は雄穴石室と共通するが、規模が一回り小さく、平面逆L字形で、玄室(奥室)床面には一段高い棺台状の区画が造られている。
内部から銀象嵌装飾の刀装具をもつ大刀や、朝鮮半島で例の多い特殊な鉄斧(ほぞ孔鉄斧)などの副葬品が出土した。

 

逆Lの奥部分の壁。手前に板石2段分の段差がある。

 

こちらも壁から天井へは持ち送りで石が積まれている。

 

大きな天井石があった。

 

床に近い隅の部分。

行き当たりばったりで撮ってしまい、逆Lの形状がわかる写真が残っていなかった。

 

玄室から入口をフラッシュで。入口には敷居のように石が突き出ていた。

 

フラッシュなしで。玄室からも海がよく見えた。

 

墳丘南面からは七尾湾が見渡せる。古墳は標高は80mの丘陵尾根上にある。

この古墳周辺には、これまで他に古墳は発見されておらず孤立的な存在となっているとのこと。須曽蝦夷穴古墳 文化遺産オンラインより。 

 

ズームで。右の山が石動山(いしずるやま)

 

眺望の説明板もあった(古代景観想像図)

 

そのアップ。

東北支配を狙う大和政権の意図のもとで「鹿嶋津から出航する阿部氏の水軍」

 

絵の解説部分。

須曽蝦夷穴古墳と七尾南湾
古墳の前方には、石室に使われた安山岩の露頭がある一本木鼻岬が見え、正面には波静かな七尾南湾、その向こうには七尾市街や背後に横たわる石動山系の山々が臨まれる。
蝦夷穴古墳が造られた頃、湾岸で暮らす人々は稲作とともに漁や塩つくりを生業とし、七尾湾を活発に往来していた。また、当時七尾付近には鹿嶋津と呼ばれる港が営まれ、北方へ向かう海上交通の拠点でもあった。東北支配をねらう大和政権の意図により、湾岸の人々は時として水軍の一員に加えられ、北の海に向かったものと思われる。こうした能登の海人たちを統括していたのが、須曽蝦夷穴古墳に葬られた人物であろう。

 

日本書紀からの関連年表(570年~668年)もあった。

 

北側の角、背面からも海がよく見渡せた。湾内を行き交う船のほうからも墳丘は目立っていたことだろう。

つづく。