東大附属の医科学の研究所ということで、以前から周囲から見える建物が気になっていたものの入れないと思っていた。が、グーグルマップを見ていて「近代医科学記念館」の印があったので行ってみた。
表門は地下鉄白金台駅から徒歩0分、目黒通りに面している。
門の脇には守衛室。
色とりどりのスクラッチタイルが見事だった。
その近くにあった案内図。奥が深い。
東京大学医科学研究所(通称:医科研)の前身は、1892年創立の伝染病研究所。初代所長は北里柴三郎で、当時最大の医療課題だった伝染病(感染症)克服のために、福沢諭吉らが資金を提供し北里博士を所長に招いて創立された。
病原体に対するワクチンを国内で初めて製造したほか、抗血清薬など細菌学的製剤の国内最大の製造所となった。
現在は研究所病院も擁する先端医療研究所となり、ゲノム医療、細胞・遺伝子治療等の開発・研究も行っている。
(以上は近代医科学記念館 | 東京大学医科学研究所より)
こちらのサイトにもわかりやすい解説があった。
表門からすぐの左手にある煉瓦造風の新しい建物が、近代医学記念館だった。
カフェも併設。
年末年始以外はオープン(10時~17時)だが、自分が行ったときは13:45~14:45までお昼の休館となっていた。
入館は無料。ホールのような造りの部屋の半分が展示室、半分がカフェになっていた。
北里柴三郎関係資料。
北里柴三郎 - Wikipedia は、ベルリン大学でコッホに師事し、ペスト菌や破傷風の治療法を発見した「日本の細菌学の父」であり、第1回ノーベル生理学賞・医学書の最終候補にまで選ばれた。
伝染病研究所が1914年に内務省から文部省に移管され東京大学に合併される際、移管に反対して所長を辞任。同年に私費で北里研究所を設立している。
治療用の抗毒素血清製造には馬が使われていたそうだ。
計量のためのガラス機器(凍結乾燥機の部分)は形自体が美しい。
現在、”難病との闘い”における勝利を目指す研究者800名ほどが活動しているそうだ。
入ってすぐ右側は医科研に隣接していた旧国立公衆衛生院。
台形型に前面に膨らむ連続面に縦のラインが強調されている。
設計は内田祥三(よしかず) - Wikipedia 竣工は昭和15年(1940)
安田講堂など東大の建物を多く手がけ、その様式は「内田ゴシック」と呼ばれた。
現在覆い囲いがされているが、国立公衆衛生院 - Wikipediaによれば、2007年6月に用途廃止となり閉鎖後、港区が虎ノ門3丁目の旧・港区立鞆絵小学校敷地との交換により所有、改修して新たに郷土資料館、在宅緩和ケア支援センター、子育て関連施設、区民協働スペース、防災関連施設、自転車等駐車場といった複合施設として整備中。
内田祥三は麻布笄町の自邸(戦後、ソ連大使館として使われたあと消失)から見えるこの建物を気に入っていたとの記録があるそうだ。
囲いには内部の写真も貼られていた。見事な中央階段ホール。
こちらの記事によれば、再来年の2018年2月末に工事が完了する予定。
港区 新郷土資料館異工種JVは6社 [2015年12月01日] - Minkabuニュース
囲いの前の少し窪地になった広場には、ヒマラヤ杉が心地よい木蔭をつくっていた。
道なりに進むと医科学研究所1号館の正面に出る。こちらも設計は内田祥三で1937年竣工。
こちらも耐震補強や設備機能強化のために改修中。2016年度中には完了するようだ。
アーチがあって旧国立公衆衛生院と比べると、少し”まろやかな”印象。
つづく。