墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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国宝・正福寺千体地蔵堂 野口不動尊大善院 東京都東村山市野口

前回のつづき。

お墓参りの後、最寄駅の西武池袋線ひばりケ丘から少し足を伸ばして東村山の正福寺(しょうふくじ)を見に行った。4つ先の所沢で西武新宿線に乗り換えて1駅目。

改札を出て辺りを見回すとガラスに表示があった。

 

周辺案内図。正福寺は駅の西、北山公園の南側。

駅の西側には南から北へ前川が流れていて、起伏のある魅力的な地形。

 

駅前はきれいに整備されている。駅直結のタワーマンションもあった。

 

西へ歩き出すと 五差路になった。正面の、地蔵祭りの幟がかかる道を進む(祭りは11月)

 

ゆるく下って小さな「前川」を渡ると上りになる。その途中に別のお寺への参道があった。

 

裏道のようにも見えるが、きちんとした石畳が敷かれている。

 

野口不動尊大善院というお寺があった。

 

境内には、不動明王が分身の術のように立つ溶岩の山が聳えていた。

 

 家庭円満のこぶしの木も。

 

総本山は延暦寺で、明治期に八王子から移ってきている。

 

セルフのおみくじがいい雰囲気だった。

 

本堂から参道方向。桜は三分咲きぐらい。

 

もとの2車線道に戻り、スーパーの先を右折すると住宅街の先に正福寺の山門がみえた。

 

想像していたより鄙びた雰囲気の境内だった。

 

銅葺きの屋根だが風情がある山門。

 

元禄時代の建立。

東村山市指定有形民俗文化財(建造物)

正福寺山門

金剛山正福寺は臨済宗の寺院で、鎌倉の建長寺の末寺です。その仏殿である地蔵堂は、応永14年(1407)建立の典型的な禅宗様建築であり、東京都唯一の国宝建造物です(昭和3年・1928指定)

鎌倉幕府執権であった北条時宗か、またその父である時頼によって開基され、勧請開山は中国南宋の石渓心月仏海であると言い伝えられていますが、確たる史料は現存していません。

正福寺山門は、昭和48年(1973)に行われた解体修理の際発見された、親柱枘の墨書銘「元禄十四辛巳年無神月吉祥日建□(者)也、此時住寺號月山(以下略)」から、元禄14年(1701)、月山の代の建立であることが判明しました。

山門の建築様式は、四脚門で切妻、昭和48年の修理の際に、茅葺から茅葺形銅板葺に改修されました。建築様式は禅宗様で、その規模は、桁行十尺(3.03m)、梁行十尺で、高さも柱底部から桁下端まで十尺となっています。屋根は、かつては、化粧裏板の上に登り、梁を架けて茅葺としていたものと考えられます。また、彩色は柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られ、もともとは全体が朱で塗装されていたものとみられます。

江戸時代の伽藍の遺構を示す、貴重な禅宗様建築物です。東村山市教育委員会

 

門の先には、屋根がピンと反った建物があった。

 

地蔵堂拝観の前に、参道左の気になる祠へ。

 

室町初期の板碑が納められていた。昭和になっても祟りがあったそう。

東村山市指定有形民俗文化財 貞和の板碑

この板碑は都内最大の板碑といわれ、高さ285cm(地上部分247cm)、幅は中央部分で55cmもあります。

碑面は釈迦種子に月輪、連座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五年丑己卯月八日、帰源逆修」とあり西暦1349年のものです。

この板碑はかつては前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋ともよばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和2年5月に改修のため板碑を撤去したところ付近に赤痢が発生したのでこれを板碑のたたりとし、同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺内に移築したものです。

昭和60年11月 東村山市教育委員会

 

いざ地蔵堂へ。

2009年に赤坂迎賓館が国宝指定を受ける以前は、東京都内で唯一の国宝建造物だった。

 

 鎌倉の円覚寺舎利殿(国宝)は拝観料を払って入っても遠くからちらりと見えるだけ(年に3回特別拝観の機会はある)だが、こちらはいつでも自由に近づくことができる。

国指定史跡 円覚寺の国宝・舎利殿(の遠望) 神奈川県鎌倉市山ノ内 - 墳丘からの眺め

 

標柱の国宝も文字はほとんど読めなくなっていた。

 

地元の保存会による「国宝」の立札も同様の状態。

 

見事な屋根。こけら葺きのソフトな仕上がり。 

 

軒下も見事。

 

下は裳階の庇。

 

東村山市教育委員会の解説板がわかりやすかったが、「国宝」はあまりアピールされていなかった。鎌倉円覚寺舎利殿とともに禅宗様仏殿の代表作。1407年築。

正福寺千体地蔵堂と堂内

この正福寺千体地蔵堂は、都内唯一の国宝建造物です。地蔵堂本尊及び小地蔵尊像は、市指定文化財となっています。

千体地蔵堂は、鎌倉円覚寺舎利殿とともに唐様建築を代表する建物です。波形欄間、花頭窓、屋根の反りなどに特徴があります。昭和8~9念に屋根の瓦葺きをこけら葺きに改修した際に発見された墨書銘により、室町時代の応永14年(1407年)の建立とわかりました。寺の縁起では鎌倉幕府の執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれています。

地蔵堂本尊は、昭和48年の修理のとき文化8年(1811)、江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛と書かれた墨書銘が発見されました。

また小地蔵尊像については、江戸時代の地蔵信仰が盛んなとき、多くの小さな地蔵尊の木造が奉納され、堂内の天井に近い長押に置かれ、(写真参照)千体地蔵堂の名もここに由来します。祈願する人は、小地蔵尊像を一体借りて、家に持ち帰り、願いが成就すれた別に一体添えて奉納するというもので、像の裏側には祈願者の名前や年号が入っており、大きさは10cmから30cmほどのもので正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は、地元は勿論、所沢・国分寺・小金井などに及んでいます。

平成6年(1994)3月 東村山市教育委員会

 

説明板の写真は薄れていて様子はよくわからなかった。毎年11月3日(地蔵祭りの時)に公開されるので再訪したい。

 

下から見上げる屋根の角は鋭く尖っていた。

 

美しい曲面。

 

側面から。

 

入母屋造りの妻の部分。もう少ししたら桜との競演が見られそう。

 

奥には大きな本堂があった。

 

石像菩薩が並ぶ道も。

 

地蔵堂前の広場の木の注意書き。かつてはここで野球をしてしまう少年達もいたのだろう。

 

あとで調べていたらお寺のすぐ北に魅力的なうどん屋さん(野口製麺所)があることを知った。

 

また、こちらの記事によれば近くにある「八国山たいけんの里」では遺物が見られるとのこと。

@nifty:デイリーポータルZ:東京で唯一だった国宝と対決する

 

この時は次に、600mほど東にある東村山ふるさと歴史館へ向かった。

つづく。