前回のつづき。
近鉄五位堂駅から桜井駅までは8駅で20分程、急行だと3駅目と意外に近かった。
桜井駅前には、なんと前方後円墳のオブジェがあった。
ただし、モデルは箸墓古墳。最近出来たもののよう。
http://mainichi.jp/articles/20150513/ddn/041/040/014000c
時間短縮のためタクシーを利用。運転手さんは人にも確かめてここだという場所まで乗せてくれたが、ひとつ手前の丘だった。
降りてスマホで場所を確かめて、そこから小道を100mほど東へ行くと目指す墳丘があった。後円部の裾になる。
斜面についている道を進むと説明板が立っていた。
mが米の説明板。
茶臼山古墳(国指定史跡)
全長約207m、後円部径約110m、後円部高さ19m、前方部幅約61m、三段築成の前方後円墳で後円部径に対して前方部幅がせまい前期の形態を示しています。
前方部前面には今は失われたが丘陵が延びており、丘尾は切断による前方後円墳築造を考えさせる好状況を示し、古墳時代前期の前方後円墳のもっとも典型的なものとして重要な遺跡です。桜井市教育委員会
説明板の位置から西側。手前は後円部のカーブ。正面奥はタクシーを降りた丘。確かにそれも墳丘のように見えるが、あとで調べてもよくわからなかった。
この桜井茶臼山古墳も戦後になって発見されたもので、それまでは「雑木林の丘陵」に過ぎない扱いだった。
後円部の裾を時計回りに進む。
すると後円部上への道がついていた。
途中で振り返ったところ。木々がなければ非常に眺めがよい場所。
墳頂の笹藪。
藪をかき分けて進むと少し開けた場所があった。竪穴式石室が発掘された場所と思われる。
この下に埋め戻されている竪穴式石室は、板状の石を積み上げた内部を推定200kgの水銀朱で塗る豪華仕様。珍しい玉の杖や多数の銅鏡片(復元すると国内最多の81枚)などの副葬品も出土した。
墳頂では丸太垣で四角く囲まれた方形壇の跡が検出された。
こちらの方のブログに2009年調査時の現地説明会の様子が記載されている。
こちらの方々のサイトにも詳しい解説がある。
位置からも時期からも、箸墓に続く大王墓と考えられ、ロマンが溢れる。
200mを超える墳丘に上がれることも貴重。ただ冬でもこの状態なので、他の季節での探訪は難しそう。
一旦墳丘を降りて周囲を巡る。降りるときにルートを誤ってコケそうになった。
くびれ部のあたり。古いタイプの柄鏡形前方後円墳なので前方部の裾が開かなく、くびれもゆるやか。
行き止まりかと思ったら道は続いていた。
その先では説明板も遺跡になっていた。
前方部は国道165号に接していて、再びそこから東の側面へ廻った。
こちらにも説明板があった。
史跡 桜井茶臼山古墳
鳥見山北麓の尾根を利用して作られた大型前方後円墳(全長207m、後円部径110m、前方部幅61mで葺石をほどこす)で墳形・副葬品などから4世紀前半を下らない時期に造営されたわが国最古の部類に属す大規模な古墳の一つである。
昭和24~25年、橿原考古学研究所が発掘調査を行った結果、後円部中央に底部穿孔の壺形土師器を並べた長方形の檀とその内側に竪穴式石室を検出した。石室は偏平な割石を架したもので、内法の長さ6.8m、幅1.1m、高さ1.6mである。室内にはトガの巨木で造った刳抜式の木棺の一部が遺存していた。盗掘を受けていたが、鏡片、勾玉、剣、銅鏃などの武器類、車輪石、鍬形石などの腕飾類、さらに玉杖、玉葉などの特異な碧玉製品が出土している。昭和48年3月27日指定 奈良県教育委員会
フェンスと小屋の間を通っていく。
東側のくびれ部。建物が侵食していた雰囲気。
その先でフェンスが開いた箇所があり、くびれ部上へ続く細い段があった。
くびれ部から前方部裾方向。
後円部へ上がる道。
後円部から前方部。細長くストレートな前方部の形状がなんとなくわかる。
再び後円部の開けた場所へ笹薮を進んでいたら、途中で大きなトゲのある細枝をつかんでしまった。
ズカズカ入って来るなと怒られている気がしました。確かに上る前に拝み忘れたかも。
つづく。