墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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三田用水跡(日の丸自動車学校前) 千代ヶ崎 東京都目黒区三田

先月、白金エリアの三田用水路跡を見たが、その上流部に遺構があることを知ったので行ってみた。

 

目黒駅西口を北へ尾根筋の通りを500mほど歩くと道沿いに日の丸自動車学校の建物がある。

 

北側の植え込みに説明板と樋(とい)の礎石があった。

 

長い距離に用水を引くには土地の傾斜を考え抜いた設計が必要となる。玉川上水の43kmに比べれば短いが三田用水も2里、つまり8km近くになる。礎石の高さも微妙に調整したはず。

三田用水跡

かつてこの地を流れていた三田用水は、寛文4年(1864)に中村八郎右衛門、磯野助六の両名が開いた三田上水を始めとしています。この上水は三田、芝、金杉方面の飲料水とするため、玉川上水を下北沢で分水し、白金猿町までの2里ほどを流したものです。

享保7年(1722)8代将軍吉宗は、室鳩巣(むろきょうそう)の上水が火事の原因となるという意見を採用し、三田上水を含め4上水を廃止しました。しかし、三田、上目黒、中目黒、下目黒の目黒4ヶ村をはじめ流域14ヶ村から農業用水として利用したいという願いが関東郡代に出され、享保9年(1724)に農業用の三田用水として再開されました。

以後、三田用水は豪農等で組織された用水組合により管理されました。農業の他に水路が淀橋台とよばれる台地上を通るので、大正末頃まで台地の下に水車を設置した製粉・精米にもさかんに利用されました。また、明治末頃からの目黒付近の工業化にともない恵比寿のビール工場の原料水や目黒火薬製造所(後の海軍技術研究所)の用水としても用いられました。

戦後は急激な都市化により水質も悪化し、わずかにビール工場の洗浄用水として細々と用いられていましたが、それも不要となり、昭和50年(1975)にその流れを止め、三百年にわたる歴史の幕を閉じました。

下の石は三田用水の木樋の下に設置された礎石です。平成9年3月 目黒区教育委員会

 

恵比寿ビールも三田用水のお蔭。

代官山の朝倉家も三田用水を水車の動力として精米業で財を築いていた。

旧朝倉家住宅 重要文化財(建物編)東京都渋谷区猿楽町 - 墳丘からの眺め

 

用水をもっと遡って歩きたくなったが別の機会とした。

 

日の丸自動車と道を隔てた公園に気になる説明板があった。

 

この界隈についての説明板だった。

千代ヶ崎 三田2-10-31

JR目黒駅近くの権之助坂上から恵比寿方面へ向う目黒川沿いの台地はかつて「千代ヶ崎」と呼ばれ、西に富士山を、東に品川の海を臨む景勝地でその様子は「江戸名所図会」にも描かれています。

目黒区目黒一丁目、三田二丁目と品川区上大崎二丁目の区境あたりの地に江戸時代、九州の肥前島原藩主松平主殿頭(とものかみ)の抱屋敷がありました。2万坪あまりの広大な敷地の庭には、三田用水を利用した滝や池があり、景色のあまりの見事さから絶景観と呼ばれた別荘がありました。

屋敷地の一角(現、目黒1-1付近)には、かつて「千代ヶ池」という池がありました。これは南北朝時代の武将新田義興(よしおき)が、多摩川矢口の渡しで非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投げた池と伝えられています。千代ヶ崎の地名は、この「千代ヶ池」が由来とされています。平成22年3月 目黒区教育委員会

 

説明板の隣に付近の案内図もあった。右下が北。

目黒駅が品川区にあることもわかる。

 

三田という地名は港区にもあったなあ(三田駅も)と思ったら、三田は古代からの由緒ある地名で元は同じ「御田郷」だった。

 

目黒の地名 三田(みた) 目黒区

「三田」は、区内で一、二を争う古い歴史をもつ地名。その由来は、遠く大化の改新以前にまでさかのぼるといわれている。

 十世紀初めに編さんされた「倭名類聚抄」によると、古代、武蔵国荏原郡に「御田郷みたごう」と呼ばれる土地があり、その名は、大化の改新以前の天皇の直轄領地「屯田みた」に由来するものというのが定説。明治半ばまで旧目黒六か村の一つであった三田村の地は、古くは、港区の三田とともに、この「御田郷みたごう」に属していたと推定され、その後、十五世紀ごろまでに、港区三田に当たる地域が「三田村」、目黒区三田一帯が「銀しろがね三田郷」と、二つの地域に分かれ、さらに江戸時代以降、「銀しろがね三田郷」が港区の白金村と目黒区の三田村とに分かれていったものとみられている。

 なお、こうした経緯から、港区三田と目黒の三田は、ともに今日まで、現在港区三田にある春日神社の氏子という親しい関係にある。

 しかし、江戸時代以降の両者の発展には大きな相違がみられる。港区の三田から白金辺りまでは町奉行支配地となって開けた一方、目黒の三田村は、その大半が幕領や大名・旗本の別邸などで占められたこともあるが、文化・文政の江戸繁盛期でさえ戸数十戸余り。三田用水から引いた滝が落ちる名園など、景勝の地としてのみ知られてきた。

 明治以降、山手線の敷設やビール工場の建設など、開発の波に見舞われながらも、鉄道が掘割の中を通り、地勢が急なことから、近年まで、なお昔の面影を残してきた。しかし、平成6年10月に恵比寿ガーデンプレイスが開業し、この地域も大きく様変りした。

 

下記が港区のサイトの記述。目黒区との情報の詳しさの違いが面白い。

港区公式ホームページ/三田(みた)

荏原郡(港区、千代田区の一部と品川・大田・目黒・世田谷区)の御田郷は、古くは、港区三田~白金、目黒区三田までを含む地域で、荏原郡9 郷の一つに数えられました。「三田」は区内で最も古い地名の一つで、承平5年(935)頃の文献に「武蔵国荏原郡郷“御田”」と紹介されています。カナが普及する前の時代の書物ですが、「美田」と、漢字で漢字に読み方が記してあったそうです。皇室に献上する米をつくる貴重な田だったので「御田」とする説などがあります。箕田、箕多、弥陀、美田などと表記された時代もありました。

 明治4年(1871)、肥前島原藩下屋敷跡に「慶應義塾」が移転(現・二丁目=芝地区内)してきたことにより、下宿屋・食堂・書店・文具店などが増え、武家町から学生街へと町風が一変しました。

 明治11年(1878)年、芝区に所属。昭和42年(1967)、芝新門前町、芝新門前河岸、芝赤羽町、芝三田豊岡町、芝新広尾町、芝伊皿子町などが合併し、現在の「三田」となりました。

 一~三丁目は芝地区に、四・五丁目が高輪地区に属しています。

 

上記は後で調べて知ったことで、このときは坂道歩きを楽しんだ。

 

途中、「踊り場?」があるもの、ストレートに台地を降りる。

 

「踊り場」から振り返って。

 

その南側に目黒区1-1の表示があった。この辺りに「千代ヶ池」があったはず。

 

一番下から。

 

上記の位置から南側。台地の端に沿って道が続いていた。

 

このときは目黒川方向へ向った。川向うの建物は目黒区民センターで、その先に目黒区美術館がある。

 

開花が待ち遠しい桜並木。下流側。

 

川沿いのゴルフ練習場はタクシー車庫との共存。

 

上流側、中目黒方向。このあたりの散策では目黒区清掃工場の煙突が目印になる。

 

目黒区美術館では「気仙沼と、東日本大震災の記憶 ーリアス・アーク美術館 東日本大震災の記録と津波の災害史ー」が開催されていた。