墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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牛嶋神社 隅田公園 東京都墨田区向島

前回のつづき。

すみだ郷土文化資料館の見学後、すぐ裏の隅田公園へ。

言問通りを渡って牛嶋神社を参拝した(言問橋たもとで通りの下を抜ける通路もあった)

南向きの配置なので横から社殿へ。

 

豪華な三ツ鳥居(三輪鳥居)のある拝殿。

 

 説明板もあった。

 

牛嶋神社

貞観2年(860)に慈覚大師が、御神託によって須佐之男命を郷土守護神として勧請創祀したと伝えられる本所の総鎮守。関東大震災で焼失する前は墨堤常夜燈の東側にあった。昭和7年(1932)に隅田堤の拡張により、現在の場所に再建された。

本殿の左右に、神牛が奉納されている他、建長3年(1251)には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。また境内には、江戸中期から後期の国学者・加藤千蔭の碑や江戸落語を中興したといわれる立川(烏亭)焉馬(えんば:1743~1822)の「いそかすは 濡まし物と 夕立の あとよりはるヽ堪忍の虹」の句碑などがある。

5年に一度の例大祭は、牛が引く鳳輦を中心に古式床しい祭列が、向島から両国に広がる氏子の町内を2日かけて巡り、本所2丁目の若宮公園内にある御旅所で1泊する。返礼の町神輿の宮入れは50基が連なる都内最大の連合御渡となる。

 

狛犬は親子か。

 

豪華な妻飾りだった。

 

地味な場所にあった説明板。

なんと、かつてこの地が牧場だったことが記されていた。

江戸・東京の農業 浮島の牛牧

文武天皇(701~704)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわり深い神社でした。

大宝元年(701)、大宝律令で厩牧命令(きゅうもくれい)が出され、平安時代までに全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置され、この付近(本所)にも官牧の「浮島牛牧」が置かれたと伝えられています。

時代は変わり江戸時代、「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増えることとなりました。明治19年の東京府牛乳搾取販売事業組合の資料によると、本所区の太平町、緑町、林町、北二葉町と、本所でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。とりわけ、現在の錦糸町駅前の伊藤左千夫「牛乳改良社」や寺島の「大倉牧場」は良く知られています。

平成9年度JA東京グループ農業共同組合法施行50周年事業

 

広い境内の片隅に赤いよだれかけの石像が。

 

表面がつるつるの撫牛(なでうし)だった。

 

説明板もあった。

墨田区登録文化財 撫牛(なでうし)

所在地 墨田区向島1-4 牛嶋神社内

撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛嶋神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。また、子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。

この牛の像は、文政8年(1825)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。

明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。

平成17年3月 墨田区教育委員会

 

 半年ぐらい前から左肩が上がりにくくなっているので、牛のそのあたりを撫でさせていただいたが「先に自分の悪い部分をなでる」ことをしていなかった(説明板は現地でしっかり読むべし・・・)

 

社殿の南側に広がる隅田公園(墨田区側)

 

円墳のような土盛りに上ってみた。周囲は桜だらけ。

 

雪吊りのある庭園もあった。

 

ここで(人生で)初めてカワセミ(多分)に会った。が、逆光で色がわからず。

つづく。