墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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船方神社 煉瓦造神楽庫 東京都北区堀船

前回のつづき。

あらかわ遊園から敷地の西側に神社が見えたのでまずそちらへ廻ると、船方神社の大きな標柱があった。

以下は「北区神社めぐり」 のパンフより

船方神社(十二天さま) 御祭神:日本武命

神亀2年(725)の創建とも伝えられていますが、火災(嘉永6年・1853)によりすべての記録が焼失しました。明治12年に改称するまでは「十二社」と呼ばれ、紀州熊野権現と関係があったことをうかがわせます。

 

はいってすぐに説明板。ここは荒川区ではなく北区だった。

 船方神社の十二天塚 北区堀船4-13-28 船方神社

船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森・十二天社とよばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、次の伝承にもとづいて建てられたものです。

昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立少輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(=荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を沈めたという話が六阿弥陀伝承のなかにあります。十二天とは、この十二人の侍女をさすと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。

密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方村の十二天社としてまつられたものともいえます。

なお、この伝承は江戸時代、六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし、荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の娘だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧の行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。

平成6年3月 東京都北区教育委員会

 

周囲は遊園地と住宅街だが、神域の雰囲気が溢れる。

 

社殿は隅田川を背にしている。

 

社殿の左には水神社。

 

 社殿の右には御嶽神社があった。

その後ろに十二天があったが撮りそびれてしまった。 

 

境内の西にはちょっとした神楽殿(?)と広場があった。

 

その並びには端正な煉瓦建物。 

 

祭具庫の隣。

 

「煉瓦のある風景」(荒川区荒川ふるさと文化館発行)の資料に記載されていた神輿庫だった。

 

扉右上の表札には「奉納 広岡幾次郎」と彫られていたことをその資料で知った。

下記は同資料より

船方村の鎮守だった船方神社に広岡幾次郎が寄進した煉瓦造の神輿庫。広岡工場は船方に所在し、敷地もすぐ隣だったので、氏子として奉納したものと思われる。「奉納広岡幾次郎」の標石が埋め込まれている。煉瓦は広岡工場製のものだろう。

 

煉瓦の色は少し黒っぽい。広岡工場製だとすると大正11年以前に建てられたものだろう。

 

軒下の意匠も凝っている。

 

小品ながら見応えのある建物だった。正面のシャッターも元に復原できれば観光資源にもなるのではないか。

 

境内の東側には割としっかりしたアスレチック遊具があった。

 

堤の上から。奥が神社。

 

後ろは隅田川。

 

パイプは「永久水利」用のものか。

 

川下方向。

 

その右手があらかわ遊園になる。

 

川上には首都高中央環状線。

 

堤には桜並木もある。

 

もうじき大賑わいになるのでは。

 

ここいは水上バスの発着場もあった。

 

船が出る日は非常に限られていた。2016年版の予定はまだだった。

つづく。