墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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小松宮彰仁親王銅像 @上野公園

前回のつづき。

東京都美術館へ行く途中、大きな銅像があることにはじめて気付いた。

 

説明板もあった。

小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)銅像 台東区上野公園8番

彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。

明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、その総長に就任した。同15年には、小松宮彰仁親王と改称。同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36年1月18日、58歳で没。

銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。作者は文展審査委員の大熊氏廣。「下谷区史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。

平成8年7月 台東区教育委員会

 

1846年生まれの小松宮彰仁親王は12歳で出家してお坊さんになるはずだったが、時代が王政復古に変わったときに22歳だったので軍人エリートとして道を歩むことになった。

小松宮彰仁親王 - Wikipediaによれば、明治23年(1890年)から陸軍大将、近衛師団長、参謀総長を歴任し、日清戦争では征清大総督として旅順に出征、明治31年(1898年)には山縣有朋や大山巌、西郷従道とともに元帥の称号(軍務の顧問)を受けている。明治35年(1902年)の英国王・エドワード7世の戴冠式では明治天皇の名代として臨席。1903年に没したときは国葬となっている。

 

ちなみに、人生の激動さでいえば小松宮の弟君で、現地説明板に寛永寺の門跡として記された北白川宮能久親王 - Wikipediaの方が激しい印象。お姿は国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)脇の木立の中の銅像で見ることができる。

 

 

「STATUE OF THE IMPERIAL PRINCE KOMATSUNOMIYA AKIHITO」のサイン。

こちらの解説文は初代赤十字総裁としての活躍についてのみ。

 

上野の山でも一段高い位置に台座が置かれている。

後ろには動物園入口付近の遊具。

 

 帽子の飾りも細かく造られている。

 

重厚な台座。

 

明治45年竣工の台座だが、九段下の品川子爵の台座(明治40年・辰野金吾の作)よりもクラシカルな雰囲気。

上野公園の銅像は西郷隆盛だけでなく、小松宮彰仁親王のほかに野口英世像、ボードワン博士像、安井誠一郎像が立つ銅像の”宝庫”

歴史群像―学研デジタル歴史館-「TOKYO銅像マップ―上野恩賜公園」

 

 

銅像のそばには堂々とした桜・「コマツノオトメ」の原木がある。

 

エドヒガンの雑種で、この銅像の近くにあることからその名が付けられたそうだ。