前回のつづき。
資料館(旧事務所棟)の近くに小さな煉瓦建物が残っていた。 小さいが重文。
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設 旧変電室
重要文化財(建造物) 平成9年5月29日指定
明治39年頃の建造と言われている。室内には変電施設が設置されていた。
日露戦争後の好景気による建築・土木事業の拡大がもたらした煉瓦需要の増加に応対するため、日本煉瓦製造株式会社は、設備投資の一環として電力の導入を開始した。諸産業への電力利用の普及もあり、従来より使用していた蒸気式原動機の電動機への転換に踏み切ったのである。
明治39年8月、会社は高崎水力電気株式会社と契約を締結、電灯線を架設し、電動機を導入した。当時の深谷町に電灯が導入される1年前のことであり、先端技術を積極的に導入しようとする会社の姿勢をうかがうことができる。
その設備自体はすでに失われているが、この建物だけが建造当時の外観をとどめている。当時の煉瓦業界の隆盛を物語る貴重な建物である。
文化庁 埼玉県教育委員会 深谷市教育委員会
建造当時の煉瓦工場の外観をとどめている唯一の建物。
外壁煉瓦もきれいに残っている。間口5.83m、奥行き4mで外観しか見られないが、内部の壁は漆喰塗り、床は板張りになっているとのこと。
窓横の煉瓦は斜めにカットされている。
資料館(左)と変電室(右)との間には鉄道遺構のようなものがあった。
よく見たら昭和62年の創業百周年時の記念碑だった。実際かつてはここに線路が引かれていた。
今も残る鉄道遺構(備前渠鉄橋)を見るために一旦門を出る。
門の先には、かつて舟で煉瓦を運んでいた時代の川跡が。
橋は渡らずに川跡に沿った道を資料館沿いに進む。一部煉瓦塀が残っていた。
磨いてあげたくなる。
その先の川に鉄橋が残っていた。
備前渠鉄橋・ポーナル型プレートガーター橋 明治28年竣工
写真の向きは異なるが、かつてはここを煉瓦を満載した蒸気機関車が通っていた。
どんな小川でもしっかり橋をかけないと機関車は通れない。
以下は資料館でいただいたパンフより。
煉瓦の大量輸送を可能とするため、高崎線深谷駅から工場までの約4kmの区間に、日本初の専用線を明治28年に敷設しました。この際備前渠にかけられた鉄橋で、イギリス人ポーナルが設計した基本定規に基づいたI字型鋼板を橋桁とする「ポーナル型プレートガーター橋」が採用されました。橋台の煉瓦は、日本煉瓦製造株式会社で焼かれたものです。
現在は遊歩道。
最後に、現在のホフマン輪窯6号窯の外観(資料館からズーム)
間は別の会社の敷地になっている。
道路沿いから。
生産能力は月産65万個で、昭和43年までの約60年間煉瓦を焼き続けた。
以上で深谷シリーズ、やっと終了です。長い一日でした・・・