前回のつづき
Bブロックのあたりから、先を急ぐために水元公園に沿って続く「水元さくら堤」の上を歩いた。
堤の散歩道にあった石碑より。
水元さくら堤の由来
この堤防は八代将軍徳川吉宗が紀州藩の土木技術者伊沢惣兵衛為永に命じて古利根の支流のひとつであった小合溜の整備とともに江戸川の二次堤防として築かせた治水工事の旧跡で「さくら土手」と呼ばれていましたが、昭和22年9月に葛飾・江戸川両区に大水害をもたらしたカスリーン台風の洪水のために桜も枯れかつての面影を失ってしまいました。
これを惜しんだ東京葛飾ライオンズクラブが昭和47年の春から桜の植樹を行なってきました。
昭和50年代には葛飾区によって堤防道路の拡幅整備工事が行なわれ、緑豊かな遊歩道や、あずま屋や歌碑などの景観施設が整い、多くの人々が訪れるようになりました。
そして都内でも有数な桜の名所として復活なった昭和61年4月には満開の桜の下で開通式が行なわれ、一般公募で「水元さくら堤」と名付けられました。
しばらく行くと堤の外に香取神社があった。
6月の夏越の祓いで茅の輪くぐり神事が行なわれるそうだ。
公園から西に向う水路に正面を向けていた。
静かな境内。
大きな神楽殿。
拝殿軒下には龍の彫り物。
さくら堤に戻ってしばらく進むと、今度は「しばられ地蔵」への入口があった。
業平山南蔵院
もとは東京スカイツリーがある業平橋にあった。
以下はいただいたパンフ「南蔵院のはじまり」より抜粋。
伊勢物語で知られる平安時代の歌人 在原業平が東下りの際に隅田川で舟遊びをした時、舟が転覆して多くの人が亡くなりました。業平はその人々を弔い、像を刻み村人に与え、法華経を写経して塚に納めました(業平塚)。その傍らに南蔵院が創建されました。そこに橋が掛け渡され、業平橋と名付けられました。
その後、江戸期の寛永年間に本所中之郷(墨田区吾妻3丁目)に移り、関東大震災の厄に遭って昭和4年に現在地の水元に移転した。
拝殿左手の、しばられ地蔵。
ぐるぐる巻きのお地蔵様。
もうすぐお顔まで隠れそうだが、大晦日の午後11時から「縄解き供養」が行われる。
しばられ地蔵の由来は公式サイトに詳しい。大岡越前守の名裁き。
しばられ地蔵|南蔵院 公式ホームページ|大岡裁きで有名なおじぞうさまです|
しばられ地蔵は、検索すると品川区の願行寺や文京区の林泉寺にもあった。願行寺の地蔵さまは「苦しみを肩代わり」、林泉寺の方は南蔵院と同じいわれが書かれていた。
南蔵院には八角の聖徳太子堂もあった。
樹齢450年の松も。
寺を出て堤に戻る途中の民家で、たわわに実がなる蜜柑の木があった。
堤の上をさらに東へ行くと、水元公園内に金魚展示飼育池があった。
ネットが張られた屋外にある。
濁っている水槽と透明な水槽があった。
大きな出目金。
こちらは丹頂という種類。
東金町5丁目まで歩き、そこからバスで金町駅へ。
立ち寄った駅前のそば屋さん。安くておいしかった。
路地の向こうには巨大なマンションがあった。
つづく。