前回のつづき。
鰭ヶ崎古墳探訪の後、南流山駅まで歩き、つくばエクスプレスに2駅乗って八潮駅へ出た。目的地は水元公園(みずもとこうえん)
初めて降りた八潮(やしお)駅。高架下の構内が広い駅だった。
八潮駅は東京駅から直線距離で15km強。同様に15km前後圏にあるのは東が下総中山、南が羽田空港、西が西荻窪、北西が光が丘、北が舎人、というところ。
八潮は以外に東京駅から近い距離にあった。
八潮市域の地図。
水元公園へは金町駅行きのバスがあった(4番のりば)
バスで中川を越える。
越えても八潮市で、戸ヶ崎というところで三郷市になった。かつての川跡が地名でわかる。
水元公園の北の端にレンガ造りの閘門があることを聞いていたので、窓の外を見ながら適当な場所で降りた。水元5丁目で降りたがひとつ行き過ぎで、閘門橋の見学には「大場川」バス停がよい。
閘門橋は水元公園の北西端にある。地図の最下部(左が北)
開け閉めする人?の銅像もある閘門(西側から)
大きなアーチが中央に、その左右に小さい2連アーチがつ並び、写真を撮っていたテラスの裏にもうひとつ大きなアーチがある。
石の銘板には左から「弐郷半領猿又閘門」と刻まれている。
テラスの裏側のもうひとつのアーチ。
岸側からみたテラス(上記の写真を撮った場所)
溝の部分のアップ。
解説板もあった。
閘門橋(明治42年完成)
閘門橋は、レンガ造アーチ橋としては、東京に現存する唯一の貴重な橋です。
橋名の閘門というのは、水位・水流・水量等の調節用の堰のことをいいます。
江戸時代(宝永年間)この辺りは、古利根川(現在・中川)、小合川(こあいがわ:現在の大場川、小合溜)が入り込んだ、複雑な地形を有しており古利根川の氾濫地域でありました。この古利根川の逆流を防ぎ、水田の水源確保のため、さらに岩槻街道の流通路として閘門と橋が造られたと言われております。
現在の橋は、明治42年、弐郷半領用悪水路普通水利組合によって「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造アーチ橋が造られました。
その後、本橋は新大場川水門の完成により閘門としての役割を終え、また隣接する葛三橋(かつみばし)に車道を譲り、歩行者・自転車道に移り変わりました。
この改修に当たって、レンガのアーチ部分は原形のままとし、橋面上の修景にとどめました。アーチの橋脚部のブロンズ像は、荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を巻き込んでいる姿です。
閘門橋は、こうした人々の水との生活史を今に伝えるものです。
平成2年3月 東京都
反対側の岸から。
閘門を見るには左の橋の上がいいポジションになるが、幅の狭い車道があるだけなのでそこからは撮れない(危険)
橋名が刻まれた親柱。
橋上から水元公園側。
薬師寺の水煙を思わせるような欄干飾り。
東側にもテラスがあった。入口が2連だったアーチが出口で1つ(手前と奥のアーチ)になっていた。なかなか複雑な形をしている。
橋の袂の小公園のベンチもレンガ造り。
その小公園の奥から。
対岸の公園から。
つづく。