墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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石洞美術館 @千住大橋 東京都足立区千住橋戸町

こちらの方のブログで、この美術館のことを知り、興味を持ったので行ってみた。

埴輪が出演する企画展たち 埴輪は移動が大変 このチャンスにぜひ

コンパクトなプライベート美術館で、館内のカーブするスロープを上がりながら縄文から弥生、古墳時代の埴輪から中世・近世までのやきものの歴史を概観する素敵な展示を楽しむことができた。

 

石洞(せきどう)美術館

石洞美術館

館蔵「日本のやきもの展」 2015年12月20日まで開催中。

入館料500円

月曜休館だが、2015/12/21からは、次回の「スペイン陶器展(仮称)」が始まる2016/1/16の前日まで長期休館になる。

 

入口近くにあったパネル。内部は撮影禁止。

 

美術館の所蔵品は、千住金属工業株式会社の社長、会長を歴任した佐藤千壽(せんじゅ:1918~2008)の陶器コレクションが中心。佐藤千壽の雅号「石洞」が美術館の名前になっている。

 

現在の企画展は日本のやきもの展|石洞美術館

以下は上記サイトから転載。

日本列島において、初めて造られたやきものは縄文土器とよばれ、最も古い縄文土器の年代は、今から1万6,000年前頃とも言われており、日本は、世界で最も早く土器の焼造が始まった地域の一つです。縄文土器は、1万数千年の長きにわたって焼かれ、使われ続けましたが、時代の移り変わりとともに、弥生土器、土師器へと変わってゆきます。

 一方、古墳時代には、朝鮮半島から陶質土器(炻器)の製作技術が伝わり、須恵器が誕し、飛鳥時代には緑釉陶器の、奈良時代の終わり頃には灰釉陶器の生産が始まり、平安時代の終わり頃には、いわゆる中世陶器が造られるようになりました。桃山時代には茶の湯の流行とともに、鉄絵具で様々な文様を描いたり、変わった形に器を成形するなど、様々な形・装飾の茶陶が造られるようになります。また、江戸時代の初め、1610年代には、有田周辺で磁器が焼かれるようになり、現在、私たちが使用するやきもののバラエティが揃いました。

 現在の日本列島を見渡すと、北海道から沖縄まで、日本各地でやきものが焼かれて流通し、それらの器が私たちの生活を潤しており、まさに、日本はやきもの列島と言っても過言ではありません。

 本展では、館蔵の、縄文土器、土師器、須恵器、埴輪、瀬戸・美濃や備前などの陶器、伊万里の磁器など、およそ80件の作品により、日本のやきものの変遷を辿りたいと思います。

 また、伝統的な日本のやきもの技術を礎に、個々人の創意によって生み出された現代陶芸作家の作品、およそ20件を並陳致します。

 

展示品の数でみると瀬戸黒茶碗や、伊万里などの染付磁器がメインのようだったが、縄文土器(人面装飾部分)や埴輪も十分興味深かった。

 

カテゴリーごとに書かれた解説が通常の美術展より詳しい。混雑はなかったので人を気にせずその場で読めるので理解も深まり、作品をじっくり見ることができた。

今週末の日曜日で終了。

 

 

以下は、美術館へ行くまでの様子。

最寄り駅は京成線の千住大橋駅。京成上野駅~青砥駅の間の京成本線にある駅。

京成線のこの区間に乗るのは初めてだった。

 

駅前の案内図(下が北) 隅田川が弧を描く(右が上流)

 

駅前の交通広場。マンションの間から、お寺の屋根のような、目指す建物が見えた。

 

上記の中央にぽつんと立つ木は高野槙(こうやまき)とのことだった。

千住大橋にまつわる解説があった。

交通広場のシンボルツリー 「高野槙」

交通広場の中央に見える立ち木は、交通広場のシンボルツリーとして植樹した常緑針葉樹「高野槙」です。和歌山県の高野山に多いことに由来する命名です。高野槙は、水に強くて朽ちにくいことから、橋の支柱として利用されていました。

「千住大橋」は、徳川家康から普請奉行に任じられた伊奈備前守忠次が、文禄3年(1594)、荒川(現在の隅田川)に架橋した木造橋「大橋」がその始まりです。大橋はその後流失のたびに架け替えられ、江戸時代を通じて維持されました。当時、多くの人々から名橋と謳われたその力強い姿は、江戸の名所として浮世絵師や画師たちの題材に度々取り上げられました。

この千住の大橋の橋杭材として用いられたのが高野槙です。昭和2年(1927)、金属製のアーチ橋に架け替えられる際、木造橋を惜しんだ千住の人々は、その橋杭を素材とした彫刻制作を地元の木彫家に依頼しました。以後作品は家々で守られ、大橋の歴史を今日に伝えています。

なお、当時の木造橋の橋杭3本は、現在でも千住大橋の橋下の水中に見ることができます。

高野槙は千住大橋さくら公園にもシンボルツリーの一本として植樹されています。

 

 一旦駅に戻って北側も見てみたら、ラーメン二郎があった。

 

改札前、高架下のミニ商店街。

 

南側からの千住大橋駅の外観。右の緑のところが入口。

 

「当地は足立区の災害時用土のう置場などとして、東京都住宅供給公社から無償貸与を受けて、現在足立区が暫定利用しています」との表示のある空地が駅前に広がっていた。

 

空地の向かいには昨年(2014)オープンしたばかりの巨大な「ポンテポルタ千住店」

 あとで調べたら、広大な土地は株式会社ニッピと株式会社リーガル・コーポレーションの工場跡地だった。

千住大橋再開発のまとめ 投資のねらい目は? | ZUU online

 

 

寺院風の屋根の方角に歩いていくとすぐに、美術館のある千住金属工業株式会社の本社ビルがあった。

 

銅板葺き、煉瓦タイル貼りの平面六角形の建物が2棟並び、存在感を放っている。

 

右側の棟に石洞美術館入口があった。1,2階が美術館になる。

 

正面に回って。2棟を連結する中央部はガラス壁。

 

西側に回って。上部屋根の下はテラスのようになっている模様。

 

本社の後ろ側に気になる路地があったので行ってみた。

つづく。