前回のつづき。
白百合女子大を後にして、白百合学園通りを下っていると途中に八幡神社入口があった。
直進すると参道の横に出た。
御祭神は応神天皇(誉田別名)
御由緒は下記のように率直に説明されていた。
創立年月日並びに由緒沿革等未詳なれど古老等より開村当時よりの鎮守として尊敬をうけてきた古社と推定される。
鳥居から社殿までは数段の石段がある。
上記の位置から後ろを振り返ったところ。参道は細く長く延びる。
たまたま今朝(11/17)見たのNHKニュースで、和歌山県の古座で廃虚になった神社が取り上げられていた。人口減少が進行する地域では氏子の減少・高齢化で神社の存続が危ぶまれており、25年後には全国の神社数は現状の4割に減る(約7万6千社→3万1千社?)という試算も紹介されていた。
こちらの神社では、掃き清められた境内で人々に大事にされていることが伝わってきた。
参道の先端から振り返ったところ。道が斜めに横切っている。
その背後には都営アパートが並んでいて、さらに数十m南に仙川。神社はもともと仙川が参拝路だったのではと想像をたくましくした。
仙川を渡ると行きには気づかなかった祠があった。
祠に庚申塔が納まっていた。
説明板もあった。地元有志の方々による保存伝承活動だった。
下仙川村辨天坂 庚申塚(塔)の由来
この庚申塔は、今を遡る三百年程前の宝永元申年(1704年)、武蔵国多摩郡下仙川村宅添の現在地に、村びとによって建立されました。
往時は、60日ごとにめぐってくる庚申の日に、講中の人びとが宿の当番の家に集まって、飲食を共にして眠らずに過ごすという庚申待ちの風習がありました。この民間信仰が、仏教の守護神である青面金剛と結びつき、病魔を払い悪疫を防ぐために村の辻々に塔が建立されたと言い伝えられています。
石塔の正面に青面金剛の姿と三匹の猿が刻まれ、台座に寄進者九名の名前がありますが、風化してはっきり読み取れません。
この希少な石塔を露立するに忍びず、ここに祠を建立し先人の風習を構成に伝承するため、町内各位にご協賛をいただきました。
当地主(浜島和男氏)のご好意ご協力に対し感謝申し上げます。
平成17年(2005年)12月 庚申祠建立委員会
庚申塔から斜めに枝分かれする道を行くと、斜面に不思議な土地があった。
古墳がありそうな雰囲気。ここから4kmほど西、野川沿い国立天文台構内(三鷹市)には天文台構内古墳(未探訪)がある。
甲州街道沿いには山門が立派な天台宗大慈山昌翁寺があった。
境内から山門。すぐ前を甲州街道が通る。
社殿も大きい。
境内には幾本かの巨木があり、駅近で街道沿いにもかかわらず深山の雰囲気があった。
なんじゃもんじゃの木も。
ひっそりと庚申塔もあった。
仙川駅に戻る。西側をズームすると山並みが見えた。丹沢の山々か。
上記の橋から仙川駅。切り通しにかかる橋上の駅だった。
仙川駅は、新宿から西南西に10km強、吉祥寺からは南4.5kmほどの位置になる。
南側へ仙川商店街を少し歩いてみた。全体が仙川ハーモニカタウンと名づけられていて、さらにハープタウン、ピアノタウン、ヴァイオリンタウン、トランペットタウンに分けられる。商店街の先に桐朋学園大学があるからか。
桐朋学園の入口。
その向かいには懐かしい雰囲気の書店があった。
商店街も、昭和の雰囲気があった。
通学の時間帯は混み合いそう。