墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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川口の街 本一通り界隈・2 埼玉県川口市金山町・本町

前回のつづき。

風情のある煉瓦塀脇の細道を抜けると昔の商店が残る通りに出た。

(現在の岩槻街道・国道122号線は、150mほど東に並行していた)

 

江戸期の商家のような中西日進堂薬局。

 

立派な看板が目をひいた。

 

こちらの建物も雰囲気があったが営業しているか?

 

板戸は閉まっていたが、ただの定休日だった。

 

本一商店街の北端にある福田屋洋品店。

 

並びの看板建築も見事。

 

福田屋さんは、自販機以外は営業されているのだろうか。

 

大きな通りの向かいには立派な門の民家があった。

 

その西側の敷地には川口神社があった。

 

背の高い幟旗で晴れやかな気持ちになった。

 

もとは氷川社と称され、平安期の天慶年間の創建とも伝えられ、室町初期からの板碑のある由緒ある神社。

 

境内には川口市教育委員会による銅板の解説もあった。

下記はその一部「川口宿と鋳物業の発祥」で川口の鋳物の歴史の古さがよくわかった。

鎌倉時代の大納言源雅忠の娘が書いた「とはずがたり」には、現在の川口にあたる「小川口」の情景が描かれています。当時このあたりは鎌倉街道中道が通っていました。そして江戸時代御成道が整備され、岩淵宿につぐ川口宿が成立しました。

江戸時代後期の「遊暦雑記」には「この駅の南 うら町筋に釜屋数十軒あり、但し鍋のみ鋳家あり、釜のみ作る舎あり・・・」と書かれており、当時現在の裏町通り沿いに鋳物屋がならび、鍋・釜・鉄瓶といった、日用品を製造した様子が記されています。川口鋳物は、室町時代末期にはすでに行われていたようですが、鋳物に適した砂や粘土がどれたこと、この街道や荒川と芝川の舟運、江戸という大消費地に隣接していたことなどの要因によって盛んになっていきました。

 

銅板には、小林清親による「川口鍋釜製造図」(明治12年)も転写されていた。

 

堂々とした拝殿。中では七五三参りが行われていた。

 

境内には明治期に合祀されたいくつか社殿があった。

その中でも大きな金山神社。

 

かつては南西約300mにあったが、明治42年に政府の方針で当地に合祀された。

 

 こちらは梅ノ木天神社。

 

こちらは明治27年の合祀。

 

小屋組で守られ、拝まれる対象になっていた狛犬。江戸末期の文久元年の作で作者も奉献者もわかっている。「百三十五年に亙って社頭を守護してきたが、今般その任を終えたのに伴ひこの場所に移設」された(平成9年)

 

木蔭が広がる気持ちの良い境内だった。

 

神社の隣のモダンな家。

 

こちらは神社の北側に南向きに並ぶ商店。

 

こちらの理髪店の「サインポール」は動いていた。

 

商店の角を曲がり北に行くとこちらにもオーラのある家があった。

 

三階建ての大きな蔵。

 

川口神社から東に200mほどの場所にある錫杖寺。

 

関東八十八ヶ所霊場のいとつ。

 

こちらの説明板も銅板。行基の建立と伝えられ、川口宿の中核寺院として繁栄した。

 

川口宿絵図

左の図(下図)は、旧川口宿の本陣であった永瀬祥治家に伝わる文政4年(1821)に描かれた「川口宿絵図」です。この図からは、将軍家が日光墓参のために整備した、日光御成道の岩淵宿につぐ第二の宿場として発達した、旧川口宿の往時の姿をうかがうことが出来ます。街道に沿って町屋が軒を並べ、その西側には裏町が形成されていたことも見てとれます。現在「本一通り」として、その景観の一部を残してしまいます。なお、「鋳物のまち」としての川口は、この裏町を中心に発達しました。

錫杖寺は、この宿の北のはずれに位置しています。まさに川口宿のかなめとして、町の発展を見守り続けてきました。

 

銅鐘は寛永十八年(1641)の銘文がある県指定有形文化財。

 

福田屋洋品店の向かいにあった日光御成道と川口宿の説明板。

本一通りはかつてのメインストリートだった。

 

日光御成道の経路図のアップ。左が北。

 

今は町会場になっている由緒ありそうな建物。

 

軒下や戸袋のデザインがモダンな建物。

 

こちらのミニギャラリー、かつては何の店だったか。

つづく。