墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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日本ペイント 明治記念館 東京都品川区南品川

前回の旧大井町変電所のご近所にある赤レンガ建物。

「碑文谷架道橋」をくぐって50mほど先、通り沿いにある。

西面は隣の建物とくっついていた。

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あちらは大正期だったが、こちらは明治期(明治42年・1909年)

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建物の通り側には全面にネットが張られている。

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通りに面した説明板。

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東側はきちんと側面が残っていた。

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網目だと蔦が繁りやすいので手間がかかりそう。

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建物の先に敷地内への門と受付棟があり、窓口で見学したい旨を告げると見学者用の記入用紙を渡され、住所氏名等を書いて提出する段取りになっていた。

公開時間帯を確認しなかったが、門が開いているときは見学できると思われる。

 

早速中へ。写真は明治記念館の建物(の内外)のみで可だった。

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敷地内にも品川区教育委員会の説明板があった。表の説明板と全く同じ文章のようで「大きな役割と果たした」というところが微妙に異なる。

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こちらは日本ペイント株式会社の百周年記念碑(1996年時)

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入口の看板と来歴。

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日本ペイントの前身である光明社は、明治14年(1881)東京・芝三田四国町(現・港区芝3-3)で創業しました。明治29年(1896)、目黒川沿いのこの地に移転し、当地区での建設第一号工場となりました。その後つぎつぎに工場建設が進み、この工場群は日本初期の産業界発展に大きく貢献しました。

明治31年(1898)、日本ペイント製造株式会社に改組し、その後急速に拡大する需要に対応して、40年頃より、東京・大阪の両工場で近代化と生産力強化のための工場拡張を行ないました。

この建物は、その工場の一つであって、明治42年(1909)に当時の技術の粋を集めて設計された、わが国最古の煉瓦建・油ワニス工場です。品川区内の洋式建物として最も古いもので遠くなりつつある明治の面影を残す建物として、品川区教育委員会より保存の要請をうけました。当社創業百周年(1981年)を記念し、“明治記念館”と命名し、末永く保存することとなりました。

 

館内の様子。ボタンを押すと数分の自動解説が流れる。

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日本ペイントの前身「光明社」は艦船用塗具の専用工場として設立された。

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当社の前身 光明社設立時の事情

明治11年(1878)、茂木兄弟(春太・重次郎)は、日本で初めて乾溜法による亜鉛華の製造に成功、続いて明治13年(1880)には、亜麻仁油を用いた固練(かたねり)ペイントを試作、これを翌年の第2回勧業博覧会に出品して褒賞を得た。

当時海軍では、輸入の艦船用塗具(溶解ペイント)の国産化を試みていたものの果たせないでいた。そこで茂木重次郎と田川謙三(製油)、橘清太郎(光明丹製造)は共同組合を組織し、この茂木兄弟の固練ペイント製造技術を軸に“良質の塗具製造を業とすること”を計画した。こうして明治14年10月、東京の三田四国町に約300坪の敷地と三棟の建物を得て組合が発足し、「光明社」と名付けられることとなった。

このようにして、わが国の塗料工業史の第1ページを飾る「光明社」が誕生し、1世紀余りに及ぶ当社の歴史が始まる。 

 

当時輸入に頼っていたペンキ1缶(12.7kg入り:3円)は、品川の土地(1坪:2円)より高価だった。

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ペンキは船だけでなく鉄橋や洋館などの構造物の外装の、つまり「近代化の必需品」だった。

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かつて塗料の製造や塗装の際に欠かすことの出来なかった「ボイル油」の製造設備。

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階段で上記タンクの上部へ上がることができた。レンガ壁の窓の開閉は、鉄板を縦にスライドさせる仕組みだった。

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タンク上部には何かを回転させる装置が付属していた。

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2階から館内の様子。現在の屋根は薄い素材だが、建築当初から万一の事故(爆発)の際に上部に圧力が抜けるような構造だったようだ。

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興味深い展示物だが、広い壁面も魅力的。

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再び外から。道の向こう側も日本ペイントの敷地。

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上記の左端、屋根の妻の部分の処理。斜めにレンガを積んでいた。

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調べていたら、企業博物館は大阪の本社にもあることを知った。

歴史館 - 企業情報 | 日本ペイントホールディングス株式会社

 

 

帰り際、門の脇の植え込みに説明板があるのに気づいた。

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区指定史跡の「享保二十一年銘道標」だった。

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この道標は、東海道から南馬場通りを経て目黒に至る道が、碑文谷道に分かれる地点(ほぼ現在地)に建てられたものである。

道標には「左ひ文や道」「右めくろ道」と刻まれており、享保21年(1736)に、南品川の庚申講中の人々によって造立されたものである。享保期の庚申講中の人々の信仰と、庚申講の活動の様子を示す好資料である。

平成24年9月30日 品川区教育委員会

 

明治記念館の前の道は、目黒区の碑文谷・円融寺へ向かう「碑文谷道」だった。

下記の品川区のサイトに詳しく書かれていて、読んでいくと「貴船神社の南を通る」とある。

江戸時代の道 第5回|品川区

 

大きな布袋さまがいらした貴船神社。

貴船神社 三木小学校 東京都品川区西品川3丁目 - 墳丘からの眺め

 

ということは、西品川一丁目(旧国際自動車教習所跡)再開発で消滅した、台地の縁の道は、やはり古道(碑文谷道)だったということになる。

西品川一丁目再開発(2015年9月初旬) - 墳丘からの眺め

 

さらに調べていたらこちらの方の奥深いサイトに出会って、これまで断片的に見てきた場所がつながった。

最後から2枚目の写真の位置の様子は、現在は激変中。

 

直前にくぐったJRのガードの「碑文谷架道橋」のプレートが歴史の証人のように感じられた。

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