先日ガスミュージアムへ行った際に、銀座にもガス燈があるとの話を伺ったので、行ってみた。
場所は銀座1丁目と京橋3丁目との間、首都高の下の旧京橋。
かつての京橋の親柱のとなりに寄り添うように、明かりの点いたガス燈があった。
説明板がある。
煉瓦とガス燈(1987年記)
明治初期我が国文明開化のシンボルとして、銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明は、ガス燈が用いられた。床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のまま「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、明治7年の実物を仕様、燈具は忠実に復元。
ガラスの中で「マントル」が発光していた。「点消方」はいないだろうから常時点灯なのだろうか。
中央通り側から。親柱には「京橋」の刻印板が埋め込まれていた。
親柱の頂部。ガラスと青銅の凝った造り。大正11年に造られ、かつて内部に明かりがあった。
向かいの交番の隣に親柱についての説明板があった。
京橋の親柱
京橋は、慶長8年(1603)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和38年から40年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱2基と、石およびコンクリート造の親柱1基が残されています。
このうち、2基の石造親柱は、明治8年(1875)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠(ぎぼし)の形をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。
また、石およびコンクリート造の親柱は、大正11年(1922)の拡張工事でアール・デコ風に橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きようはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅版プレートが付けられています。
明治・大正という二つの時代に設置された親柱は、近代デザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
平成22年3月 中央区教育委員会
上記の写真の拡大。
同じ場所に「煉瓦銀座の碑」も立っていた。
煉瓦銀座の碑
明治五年二月二十六日 銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地を企画建築し、政府は国費を以って煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴(ランショウ)となりたり
昭和三十一年四月二日
煉瓦街の設計はイギリス人のウォートルス。
親柱の向かいの交番。屋根は親柱のデザインを踏襲していた。
交番の横に、京橋の親柱の説明板と明治8年の親柱。
明治8年の親柱は2基あって、もうひとつは警察博物館の前あたりに。
140年を経てもしっかり残っている。
ガス燈のような街灯は、交番横の喫煙所にも立っていた。
交番の前にあった案内図。銀座には結構街のあちこちに「碑」が建っている。
ここで「銀座ガス灯通り」があるのに気づいた。
中央通りと並行し、一本有楽町側にある通り。
街灯の柱には「銀座ガス灯通り」のプレートが付く。
だが点灯しておらず、すりガラスなので中がガス燈かどうかはわからなかった。次回は夜に来て確認したい。
京橋側にあった「京橋大根河岸青物市場跡」の碑。
江戸歌舞伎発祥の地の碑
親柱に似た車止めもあった。