前回のつづき。
東京都小平市のガス資料館(GAS MUSEUM)
入館無料だが受付で簡単なアンケートに記入してから、まずガス灯館(旧本郷館の建物)へ。撮影は「不可」とあるもの以外はOKとのことだった。
5分後に「点灯実演」があるというので、その時間に合わせていったら自分一人だった。
まずは最初に使われていた「裸火」のガス灯。明治に入って初めに来た文明開化の火。
炎の形が魚の尾に似ることから「魚尾灯」というそうだ。わざわざ魚の絵を(金魚か?)を示していただいた。
菊の文様のデザインのガス灯イルミネーション。このような使われ方があったとは。
揺らめく炎はじっと見ていても飽きない。
レプリカだが、明治10年の内国博覧会でも使われたそうだ。
ガスマントルを使用した灯火の展示もあった。明るさは5倍。
カメラだと自動調整されてわかりにくいがかなり明るい。明治30年代に普及してガス灯事業の成長を支えた。
ガスマントルとは、木綿などの糸で編んだ網袋に発光剤(トリウムおよびセリウム)を吸収させたもので、ガスの炎にかぶせると灰となった網が明るく青白い光を放つ。
オーストリア人のウェルスバッハ(1856~1929)が1886年(明治19年)に発明した。
山用具のランタンで使われるもので自分も持っているが、なんでこんな網であんなに明るくなるのか不思議だった(今でも不思議)
この時代の「電球」
明るいマントルのガス灯と比較すると暗く、フィラメントは切れやすかったそうなので、大正期の終わりまではガスの明かりの時代が続いた。
関東大震災でガス管が破壊された後、明かりは電気に移り変わった。
ガス灯点灯は一日に6回実演される。
上記のガス灯が灯っている様子。まん中はビデオによるガイダンス。
日本の「明かり」の歴史は、行灯の時代から電球の時代に移行したものと思っていたが、その間に約半世紀ものガス灯の時代があった(1872年~1923年)
ガス(石炭ガス)の発見は1609年まで遡る。ガス会社の設立まではそこから約200年経った1812年、イギリスにて。
日本のガス事業は明治の初めから。高島嘉右衛門がフランスから技術者を招いてまず明治5年に横浜に、明治7年に東京の金杉橋~新橋間にガス灯を敷設した。
高島嘉右衛門 - Wikipediaに興味深い生涯が記されている。百貨店高島屋とは無関係だが、横浜に「高島町」としてその名が残っているそうだ。
こちらが「日本のガス事業の父」フランス人のアンリ・プレグラン。
ガス灯を敷設した地図も展示されていた。最下部が金杉橋。下部右の四角が浜離宮。
金杉橋には現在も東京ガスの本社ビル(1984年竣工、現在は港区海岸一丁目)が聳え立つ。下記写真の右側のビル。
初期の東京瓦斯株式会社の建物。
ガス灯は、まず街灯から、次に劇場や商店の室内灯に、その後一般家庭にも普及していった。
当初は厳しいガス灯事業だったが、それを軌道に乗せたのは渋沢栄一だった。
かつてはガス灯の点火・消火を専門に行なう点消方(てんしょうかた)という仕事があった。
一時間で50本とは結構神業ではないか。
征服や点火棒のレプリカもあった。
公式サイトの過去ブログは読み応えがあるが、「マイ・フェア・レディ」の一場面に「点火夫」が映っているそうだ。
東京ガス:GAS MUSEUM ガスミュージアム / 「マイ・フェア・レディ」に見受けられたガス灯の点火夫
こちらは三宅坂の旧参謀本部にあったガス灯の実物。
参謀本部の写真。門柱の上にガス灯が写っている。
鹿鳴館のガス灯もあったが、実物を撮りわすれてしまった。
貴重な歴史的遺産であるガス灯の展示コーナー。右隅が鹿鳴館のガス灯。
神田須田町交差点(旧万世橋駅前広場)の広瀬武夫中佐(と杉野兵曹長の)銅像の前に立っていたルーカスアウトドアランプ。
下記の絵葉書にはガス灯はないが電線が多く見えるので撤去された後か。日露戦争で戦死し軍神と崇められた広瀬中佐像も昭和22年に撤去された。
都市・東京の記憶_大東京:最新撮影原色版_神田須田町広瀬中佐銅像
エレベータの横には、点火されたガス灯があった。
シャッタースピードを短くして撮ったらマントルの形が認識できた。
つづく。