前回のつづき。
江戸期の宗太夫坑を見た後に入場口に戻ってきて、今度は明治期の道遊(どうゆう)坑へ。
こちらの坑道は大きく、水平で、ほぼストレートに延びている。
宗太夫坑のような人形展示はない。
入口からすぐの部分には金山に関する説明書きが点々と掲示されていた。
金鉱脈のできかたの図。
マグマの近くまで滲みて高温・高圧になった地下水に金銀が溶け込み、断層から上方に吹き出し、それが沈殿し鉱床・鉱脈になる。
佐渡金山の金鉱脈は金銀を含む石英脈で8ヶ所ある。
中央を左右に横切る「青盤脈」が最大で2100m。左側現在地の右下の赤い線が「道遊の割戸(わりと)」がある道遊脈でこちらは脈幅が35mで最大だった。
金鉱石の写真。
矢印の、白い石英脈の中の輝銀鉱という鉱物がわずかに金を含む。
金の含有量は、江戸初期には1トン当たり100g以上あったが次第に低下し、昭和初期には5g、平成元年の休山時では1gだったという。
金の産出量の推移。388年間合計で金は78トン、銀は2330トン生産された。
昭和初期には、江戸期に海に捨てた石を再び取り出して製錬している。
こちらの坑道は、現在も貯蔵庫として活用されていた(鉄柵の向こう)
酒や焼酎を数年間寝かせている。
坑道は「割戸」の真下まで続いていた。以前はこの場所に陽が射し込んでいたとのこと。奥から冷たい風が始終吹き込んでいた。
振り返っての1枚。
コンクリで周りを固められた「現代の」坑道。
こちらがその出口。暖かいところに出てほっとした。
出口正面には立坑のエレベータが残っていた。
こちらは最終的には深さ659mだった。東京スカイツリーの高さがすっぽり入る。
坑道出口からは割戸正面に続く見学路が整備されていた。木立の中を歩く。
その先には高任(たかとう)神社があった。高任神社も高任立坑も、明治期の初代佐渡鉱山局長・大島高任の偉業を讃え、この一帯が高任地区と呼ばれたのがその名の由来。
神社の左手奥に「割戸」を眺められる場所があった。神社参拝の前に行こうとしたら、石につまずいて転びそうになった。「まず参拝」
1601年の開発当初から平成元年の閉山まで採掘が行なわれた場所。地表に鉱脈の露頭があった。割戸の幅は30m、深さ74m。江戸時代の絵図にも山が割れて描かれているので、人の手で割ってしまったということ。山頂は江戸期の手掘りで、下部は明治以降に西洋技術を導入して再開発された。
このような絶壁の採掘跡は世界的にも珍しく1994年に国指定(史跡)を受けている。
ウルトラマンに出てくる怪獣の棲家のようだった。
再び道遊坑入口に戻って、となりの「機械工場」へ。
ターンテーブルを備えた2トン蓄電式機関車たち。
ここには重厚な機械が収められていた。道遊坑コースの見どころは坑道よりもここかも知れない(機械好きには)
大型の充電器。
工具整備の機械。
「機械工場」からその先にも、うっすらと軌道が続いていた。
上記の左の小屋。
中には、4トン蓄電池式機関車が2台あった。
さらに先へ行って振り返ると「道遊の割戸」がよく見えた。
この芝生広場は高任公園。
背後には海。
上記の位置にあった説明板。佐渡奉行所ができる前は「上相川千軒」といわれた鉱山町があった。
線路の先にあった「粗砕場」
崖下に続くベルトコンベアー、その先の貯鉱場とともに国の重要文化財となっている。
坑道からのレールはここに続いていた。
土台はなくなったが、ぎりぎり残っているレール。
製錬施設ツアーで、バスの中から見上げた場所。
史跡 佐渡金山 産業遺産(製錬施設)ガイドツアー 新潟県佐渡市下相川 - 墳丘からの眺め
【再掲】
粗砕場の中には大きなドラムが残っていた。
反対側にもレールがつながっていた。
その背後には別の坑道入口へのレールが続いていた。
転轍機を持ち上げてもレールは動かなかった。
崖下の貯鉱場。右手前の建物は中島変電所。
見下ろす建物の説明板もあった。
搗鉱場(とうこうば)跡は上からだと、より要塞のように見えた。
再び坑道に入り出口へ向かう。
振り返ったところ。
さらに奥から。このあたりが一番大きな坑道だった。
再び、資料館・おみやげ屋に出た。金粉入りのソフトクリームを食した。
ソフト屋さんの前には、江戸期に使われていた石磨(いしうす)が置かれていた。
石で石をすりつぶしていたとは。
以上で「史跡 佐渡金山」探訪は終了です。
ただ金山関連施設は、このあと訪れた佐渡奉行所にも大掛かりなものがあることを行って知りました。
こちらは次回のエントリで。