前回のつづき。
ここからが佐渡金山見学で著名なコース。
もともとの坑道を利用して、マネキン人形(一部動く)を使いながら鉱山での作業をリアルに再現する。
佐渡金山は江戸初期から400年の歴史があるが、人海戦術で掘った江戸期の蟻の巣のような歴史遺産と、産業革命を経た機械が主役の明治期以降の大規模産業遺産とは「別モノ」のように感じました。
見学の際は、同じ場所にある2つの異なる遺産を見ることを念頭に置かれることをお勧めします。
図の赤いルートが江戸時代の坑道、掘削の様子を再現した宗太夫(そうだゆう)坑、緑が明治以降の道遊(どうゆう)坑~地表部分を含む(黄色は地表の道路)
時代順に宗太夫坑から回った。
坑道入口の説明板。
国指定史跡 宗太夫坑
宗太夫坑は、坑口の高さが約3m、幅2m、坑道の断面が大きい江戸初期に開坑された大形坑道である。
鉱石の運搬機能と採掘技術が発達した1690年代(元禄時代初頭)頃の主力間歩(まぶ/坑道)の一つであった。部分的に残る「将棋の駒形」の小坑道、探鉱用の小さい狸穴、天井に抜ける空気坑、「釜の口」と呼ばれる坑口とその飾りなど、江戸期の旧坑の諸条件を完備していて、大形の斜坑はゆるやかな傾斜で海面下まで延びている。脈幅、走行延長とも、この鉱山の最高最大とされる青盤脈の西端にあたる「割間歩(われまぶ)」坑の一鉱区として開発された。平成6年(1994年)5月24日、国の史跡に指定された。
以下、説明は現地で購入した小冊子「佐渡金山:(株)ゴールデン佐渡発行」を参考にした。
階段を降りて通路を進み、70体のマネキン達が働き続けている場面数ヶ所を廻っていく。
ここは、水上輪(すいじょうりん)を使って水を汲み上げる場面。
宣教師から伝播したと推定され、大阪の技術者・水学宗甫が作った水上輪には「アルキメデスの螺旋」が使われている。
坑道は見学場所から上下左右の3次元に続いている。同じ場面を別の角度で見るところも。
深い坑道では長さ3mほどの水上輪を200~300艘連ねて多量の水を汲み上げた。
ただし、使用する勾配が30度前後という制限があったので釣瓶や手桶で汲み上げざるを得ない場所も多かった。 釣瓶を持つ悲壮な人。
上記の位置の説明板。場面ごとに説明板がある。
水替人足と無宿人
江戸時代の中頃から地中の鉱石を求めて坑道がますます深くなると、水揚機の使用がままならず、手繰り水替による人海戦術が見直された。水替人足の労働時間は隔日交替の一昼夜勤務ときつかったが賃金はよかった。しかし常に人員不足で、安永7年(1778)より、江戸・大阪・長崎などの無宿人を受け入れるようになった。
※無宿人:親に勘当されたり放浪していて、宗門人別帳(戸籍)から除外された者で、無罪の者。後に有罪者も混ざるようになる。幕末までの100年間に1874人が佐渡に送られてきた。
中の気温は11度だった。Tシャツだけだと寒い。
これを見越して持ってきた山用のレインウェアが役立った。灯りを燃やしていた当時は暑かったのか。
坑道への出入りを検問する人、出入り改め。
排水用の樋には実際に水が勢いよく流れていた。中央右上は風回唐箕(かざまわしとうみ、手回し送風機)
休息所の場面。
「早く外に出て酒を飲んで、馴染みの女にも会いてえなあ」のフレーズが繰り返される。
間切改めという、役人らによる検査の場面。
最後はホール状の場所での間歩(まぶ:採掘坑)開きの祝いの場面。
以下は説明板より。
背後の壁面の縞模様が立合(たてあい:鉱脈)
金銀を多量に含む黒い縞がくっきりと浮かぶ富鉱帯を大発見した前途を祝し、今まさに、間歩開きの祝いが始まったところである。
採掘を請け負った山師と金児(かなこ:採掘場を取り仕切る者)が見守るなか、棚の上では、佐渡金山に伝わる独特の祭礼「やわらぎ」が演じられている。
そろそろ息苦しくなってきた(?)と感じてきた頃に坑の外に。橋を渡って資料館に向かう。
採掘道具や数多くのジオラマがあって充実していた。
掘った鉱石から小判を作っていく様子がわかるようになっていた。
江戸時代の坑道は本当に蟻の巣のようだった。
金鉱石が含まれる鉱脈と主坑道のモデル。
せんべいのような部分が鉱脈。含まれる金はほんのわずかだが。
純金延べ棒にさわれるコーナーもあった。小さな窓から取り出すと記念品がもらえる。
手首の強靭さが必要で、できなかった。
資料館1階は大きな土産屋。道の向かいにはかつての坑道入口(宗太夫坑)が口を開けていた。
つづく。