前々回のつづき。
8/29(土)、相川の宿から車で5分ほどの「史跡 佐渡金山」へ向かった。
国史跡の佐渡金山の中核施設。
佐渡金銀山の遺構は、西三川砂金山、鶴子銀山、新穂銀山、相川金銀山の4カ所があるが、最も大規模でかつ見学施設があるのは相川金銀山。
開発されたのは1601年以降だが、国内最大の金銀山として江戸幕府、明治新政府、昭和の戦費など、日本の経済的基盤を支えた。
400年間にわたる採掘・製錬の遺跡・景観が良好に残り、「人類が獲得した鉱山技術のほぼすべてを見ることができる世界的にも貴重な遺構」として世界遺産登録に向けた取り組みが進んでいる(国内暫定リストには文化遺産として登録済み)
日本の世界遺産の来年の国内候補は、この「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」か「百舌鳥・古市古墳群」かとの説もあるので、決定前に見ておこうと思い旅先とした。
山あいの道を行くと道幅が広がったところに、施設入口と駐車場があった。
以下は公式サイト史跡 佐渡金山より。
佐渡金山は、1601年に山師3人により開山されたと伝えられています。
1603年には徳川幕府直轄の天領として佐渡奉行所が置かれ、小判の製造も行われ江戸幕府の財政を支えました。
1869(明治2)年に官営佐渡鉱山となり、西洋人技術者を招いて機械化・近代化が図られました。
1889(明治22)年には、宮内省御料局管轄の皇室財産となり、模範鉱山として日本産業の近代化に貢献しました。
その後1896(明治29)年に当時の三菱合資会社に払い下げられ、日本最大の金銀山として拡大発展を遂げました。
平成元年3月(1989年)残念ながら、資源枯渇のため操業を休止し、400年近くに及ぶ長い歴史の幕を閉じました。
鉱脈は東西3km、南北600m、深さ800mで、アリの巣のように拡がる坑道の総延長は約400km。江戸期から産出した総量は金は78トン、銀2,330トン。
広大な敷地に点在する坑道・採掘・製錬施設跡は殆どが国の重要文化財、史跡、近代化産業遺産に指定され、約400年にわたる鉱山技術や生産システムの変遷を見ることができる。
見学は、整備された坑道跡を歩いて廻る2つのコースと、別の場所をガイド付きで回る2つのツアー、さらに江戸期に開削した坑道がそのまま残る場所をガイド付きで歩く探検コースがあった。コース概要 | 史跡 佐渡金山
最後のコースは「健脚向き中学生以上」とあったので、それ以外のコース・ツアーに参加した。
はじめに、予約していた2つのツアーから。
製錬施設ツアーが10時発と14時発、採掘施設ツアーが11時発と15時発(どちらも60分)なので、10時発と11時発で予約した。
本来なら逆の順序(採掘が先)ではあるが・・・
以下は上記サイトの案内より。
佐渡金山から日本海に向けて、濁川と呼ばれる谷川に沿って、採掘⇒破砕⇒選鉱⇒製錬⇒積出に至る、一連の産業遺産が現存しています。
かつて東洋一と言われた北沢選鉱場(金銀の抽出施設)を中心に、当社ガイドの案内で明治、昭和、平成に至る数々の遺構をバスで巡ります。
世界遺産候補となっている、佐渡金山の生産システムのすべてが理解できる貴重なツアーです。
まずはツアーでしか入れない「無名異坑」を見学する。
徒歩で入口へ向かい、ヘルメットと懐中電灯を渡される。
ガイドの方が錠前を開け、いざ中へ。
この坑道は掘った鉱石を運搬するために掘られたようだ。掘り出された鉱土から無名異(むみょうい)坑と名付けられた。「無名異」は漢方薬の名前由来とされ止血剤としても使われたが、幕末から明治にかけてこの酸化鉄を含む土を使ったやきものが「無名異焼」として有名になり、今でも佐渡の名産品になっている。
ところどころトロッコ軌道が残っているところもあった。
しばらく行くと開口部に。
この位置の下に、江戸期の坑道(宗太夫坑)の展示(「やわらぎ」という、鉱脈発見を祝って山の神の心を和らげ鉱脈がわやわらかくなることを願う神事)の歌が聞こえていた。
もときた道を戻って坑道を出てマイクロバスに乗り、次の施設に向かった。
破砕場
昭和13年(1938)に金銀の増産計画に伴って、従来の高任選鉱場の向かいに新設された。斜面を利用して3段に建物が連なる。
坑内からトロッコで搬出された鉱石をクラッシャーで直径15cm以下に破砕し、貯鉱舎へ送った。
バス内からの見学のみだったが、一般は立ち入り禁止区域。建物の窓には三菱が刻まれていた。
ツアーでは破砕場から直接に北沢選鉱場・製錬所跡へ向かう。以下の写真はツアー後に車で回った。
道を隔てた場所にある搗鉱場(とうこうば)跡。
要塞のような石垣は明治期最先端の製錬工場の基礎部分。難しい字を書く搗鉱場とは、低品位の鉱石を粉砕し、水銀を用いて金を回収する施設だった。
そこからみた破砕場。手前の石積アーチ橋は明治期の遺構。
破砕場の先には「佐渡鉱山」と青文字の書かれた貯鉱舎があった。
窓のない大きな建物。
破砕場、貯鉱舎の建物群を下の駐車場から。
坂を下って行くと、巨大な製錬所の跡が見えてくる。
車が停められるビューポイントから。
上記左端のシックナーのアップ。
坂下へ降り、こちらの駐車場に停めて正面石段を上がった。
正面に広がった風景。
広い芝生の下にも遺構が埋まっているそうだ。きれいに整地されているのは閉山後にゴルフ練習場として使われていたという経緯がある。
採掘は、戦時中の乱掘で鉱石が減少して昭和27年に大幅縮小となったが、その後も細々と続き、中止されたのは平成元年3月だった。
右手には火力発電所跡。
赤レンガ建物の内部は、現在ギャラリーになっている。
発電所脇にはインクライン跡もあった。
横から見たところ。周囲は結構急な斜面に囲まれている。
斜面を活用した選鉱場跡。戦前に造られたこの「浮遊選鉱場」は月間7万トンの鉱石処理が可能で、東洋一の規模だった。
いい絡まり具合の蔦。これ以上繁ると遺構が見えなくなる。廃墟といえどもメンテナンスが必要なはずだが、この広大なエリアを管理するのは大変。
ガイドの方に示していただいた各遺構の役割。
上ってみたくなるような、石垣でできたスロープ。
製錬所(左)と選鉱場(右)とを分けている場所だった。
製錬所の基礎は石垣が見事だった。
明治元年(1868)夏に、明治新政府は佐渡奉行所から金山を引き継ぐと、明治2年4月から新政府直轄鉱山として施設の近代化に着手し、明治10年(1877)頃ほぼ完成している。
製錬所跡と、小さな流れ(濁川)を挟んで向かい合うのがシックナー。
直径50mのシックナー(泥鉱濃縮装置)は昭和15年(1940)に完成した。
濁川上流にある搗鉱場から排出した泥状の金銀を含んだ鉱石を水と分離し、対岸の浮遊選鉱場で他の金属原料と一緒に処理されて精鉱が産出された(現地説明板より)
全体平面図。シックナーは奥まで続き円形になっている。
こちらは煉瓦の床面が残る鋳造工場跡。
斜面上へ続く石段脇には、石垣の上に見事な枝振りの杉があった。
鋳物工場にはキューポラ(溶銑炉)もあった。
採掘して選鉱して製錬して 積み出しまで、それを支えるインフラを含めて、長さ3kmほどの細長いコンパクトなエリアで完結させていた。
再びバスに乗って、すぐ先の大間港の遺構を見学。
江戸時代は米を陸揚げした港だったが、明治時代に鉱石や資材の搬出入のために整備され明治25年に完成した。
コンクリート普及前の時代の「たたき工法(消石灰と土砂を混ぜた「たたき」と石積みを組み合わせる)」が使われている。
天気雨が来て、時間の関係もあって、さっと歩いたのみ。
右手の円形の台座上に1.2トンのクレーンが、左はローダー橋の橋脚があった。
煉瓦造りの倉庫も健在だった。
以上で製錬施設ツアーは終了。
北沢選鉱場・製錬所跡は誰でも無料で入ることができて、解説板も整備されていますが、人の声で説明を受けると理解度が高まるように思います。その場で質問もできるのでガイドツアーの価値は高いと思いました。
つづく。