前回のつづき。
このあたり、黒川と並行する壬生通は 日光道中の脇街道で、街道沿いに杉の巨木や一里塚が点在していた。
こちらは国指定史跡・壬生一里塚。東武宇都宮線の踏切から500mほど南にある。
国指定史跡 壬生一里塚
昭和3年3月24日指定
一里塚は、江戸日本橋を起点に三十六町を一里(約4km)とし、街道の両側に設けられた五間(約9m)四方の塚のことです。
一里塚が全国に広まったのは、慶長9年(1604)徳川家康が秀忠に命じ、日本橋を起点に主な街道に一里塚を築かせたことに始まると言われています。
壬生の一里塚は、「日光道中壬生通」に設けられた一里塚の一つで、日本橋から数えて二十三里目(約96km)にあたります。
壬生通は日光道中と小山の喜沢で西に分かれ、壬生・鹿沼・今市を経て、今市において再び日光道中に合流する街道です。壬生の一里塚は、この地が壬生城の入口に当たるため、将軍の日光社参の際は壬生の城主はここに出迎えるのを例にしたと言われています。
平成16年6月 壬生町教育委員会
見た目は円墳。
吾妻古墳を見るために通過した壬生中心市街だったが、歴史民俗博物館のサインがあったので立ち寄った。博物館は壬生町城址公園内にあった。
この公園内に吾妻古墳石室の玄門石と天井石が屋外展示されていることを後で知った。
吾妻古墳 の説明板の最後にもしっかり書いてあったが現地で読んでいなかった(藪蚊の攻撃もあったし・・・)
「説明板は現地でしっかり読む」必要を痛感。
こちらは壬生城の解説。
壬生城本丸址
壬生城は室町時代のなかば、文明年間(1469~86)に壬生綱重によって築かれたといわれています。各地の大名が勢力を競っていた戦国の世にあって、約100年もの間、壬生氏の主要な城となっていました。
しかし、壬生氏は小田原城の北条氏に味方していたために、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条氏とともに亡びました。
慶長6年(1601)からの110年間は、日根野氏(1万石)・阿部氏(2万5千石)・三浦氏(2万石)・松平氏(4万2千石)・加藤氏(2万5千石)というようにたびたび城主が替わりました。そして、正徳2年(1712)鳥居忠英が近江国水口から移ってからは、明治維新を迎えるまでの約160年間、鳥居氏(3万石)が代々城主となりました。
江戸時代の記録によると、壬生城は本丸・二の丸・三の丸・東郭・下台郭・正念寺郭の六つの郭からなり、これらの郭は土塁と堀とで囲まれていました。また天守や櫓といった建物は建てられていませんでした。
本丸は約140m四方の大きさで、南と北に門があり、土塁の上には塀がめぐっていました。また本丸内部には御殿があり、江戸時代の初めには将軍の日光社参の宿舎として使われました。
現在、本丸址もその南側を残すのみとなりましたが平成元年に城址公園として整備され、県内に残る数少ない近世城郭の一つとなっています。
平成2年3月壬生町教育委員会
濠と土塁がきれいに修復されている。
江戸時代の榜示杭(ぼうじくい:石標)
「従是南(これよりみなみ) 壬生領」
「下野国 都賀郡 家中村」
と刻まれて家中村に立てられていた。
石標を撮ったのに玄門石を見逃すとは。再訪せよとのことでしょう。
人のいない広場で噴水が勢いよく出ていた。
中央公民館、図書館と連なって建っていた壬生町歴史民俗資料館。入館無料。
管理の方も不在で他に人もいなかったが、展示室に入ってびっくり。
背丈ほどもある家型埴輪があった(残念ながら撮影不可)
公式WEBサイトにも写真がないが下記の2つサイトに小さく写っていた。
展示されているのは、高さ160m前後の家型埴輪が2点。
羽生田古墳群にある富士山古墳の墳頂から出土したものだった。
以前に大阪府高槻市の今城塚古墳出土の家型埴輪を見たが、それより巨大な迫力ある「国内最大級」のもの。
もともとこの壬生町歴史民俗資料館に立ち寄る予定ではなかったので危うく見逃すところだった。近くに行く際には必見の場所だと思います。
資料館見学の後は、愛宕山古墳(次回エントリ)に寄ってから、羽生田地区古墳群にも行ってみることにした。
カーナビに「茶臼山古墳」が出たのでそれに従っていくと途中にガイドマップ看板があった。
上記の左側のアップ。時間に余裕がなかったので茶臼山古墳に絞った。
途中で道に迷ったが、下の「P」の看板のところに出た。
が、その先の道があまりに細かったので、看板の近くに車を置かせていただいて歩いていった。
するとその先に「茶臼山古墳」の矢印標識があったがその先の道はこんな様子。
この先に「P」?
周囲の古墳も訪ねたいので「ベストシーズン」に出直すこととした。