前回のつづき。
神長官守矢資料館がある敷地内に、ミシャグジ社の左隣(南側)には古墳があった。
斜面の上に石室が開口している。
説明板があった。
市指定史跡 神長官裏(じんちょうかんうら)古墳
昭和52年12月1日指定
神長官裏古墳は、高部古墳群の中で唯一つ墳丘、石室の保存されている古墳である。このほか、神袋(こうてい)塚・塚屋・疱瘡神(ほうそうじん)塚・甑(こしき)塚がこの北側上方の台地に点在したが消滅した。
墳丘は、高さが北裾から約2m、東西の径9.5m、南北の径9mであるが、当初はもっと大きな規模の円墳であったと推定される。玄室は長方形で、奥にしたがって若干狭くなり、長さ3.75m、入口幅1.75m、高さは2.3mである。石材は安山岩の他数種の石を混用し、側壁は大小の河原石を窮窿状に積み、天井石は板状節理の磐石を用いている。
大正13年に調査が行なわれ、木炭・木棺破片・弥生式土器片・碁石・獣骨片が検出されたといわれる。弥生式土器片・碁石・獣骨片は後に混入したものであろう。奥壁の左側磐石が抜き取られて欠損開口し、入口は東南に向くが天井石が崩れてふさがれ、羨道部は破壊されている。築造年代は7世紀頃と推定される。
昭和53年3月 茅野市教育委員会
石室入口。
説明板には「天井石が崩れてふさがれ」とあるが、復原されているようだった。
入口から奥壁方向。説明板には玄室の高さ2.3mとあるが、かがまないと入れないので床面は土でかなり埋まっているのだろう。
内部から入口方向。
天井にも穴が開いていた。
外部から見た天井穴。もとはもっと大きく土が盛られていたことが想像される。
入口の天井石。
内部にも大きな石が組まれていた。
墳丘上からの眺め。諏訪湖方向。
同じく、八ヶ岳方向。
現在は墳丘横に大きな木があるが、かつては八ヶ岳方面から流れ来る川(現在の宮川や上川)が諏訪湖へ流れ行く様子が、ぐるりとよく見えたのではないか。
諏訪大社ができる前からこの地域を治めていたリーダーが、自分が永眠する場所としてここを選んだのではないかと想像された。