聖坂は三田駅・田町駅から250mほど東にあるが、高輪台駅から二本榎通りを1.5kmほど北進しても聖坂上へとつながる。
以前に同じルートで、途中の亀塚古墳へ行ったが、それから2年も経ってしまった。
今回は単に散歩。台地の上、馬の背を通るような風情のある道を三田まで歩いてみたかった。
亀塚公園を過ぎると、いきなり廃虚が現れた。
あとで調べたら旧「三田東急アパートメント」だった(背後は住友不動産三田ツインビル西館)
背の高いアネックスビルは1970年(昭和45年)に、本館は1957年(昭和32年)に竣工し、どちらも2009年3月に老朽化により閉鎖された。
玄関部分。ネットを見ると「芸能人」が多く住む高級マンションだったよう。
2010年に住友不動産が開発用地として取得。
【売買】三田東急アパートを開発用地として取得、住友不動産|日経不動産マーケット情報
建物は廃虚だが、周囲の土地(建物の下も!)はコインパーキングとして使われていた。
「私設」ポストも、モノとしては残っていた。
地下駐車場は閉鎖。電気はついていた。
駅から近い場所なので、田町駅西口と札の辻交差点周辺をあわせた17.5haの再開発地域に含まれている。
港区公式ホームページ/田町駅西口・札の辻交差点周辺地区まちづくりガイドライン
日比谷公園や小石川植物園(どちらも16ha)より広い。将来的には高層ビルが何棟も建つのだろうか。
ちなみにJRの新駅(都営地下鉄泉岳寺駅南東の田町操車場跡地)周辺用地も近くになるが、細長いその面積も13haある。
https://www.jreast.co.jp/press/2014/20140604.pdf
旧東急アパートと聖坂を挟んで建つのはクウェート大使館。上階が空中に浮いているような面白いデザインだと思ったら丹下健三だった。地上7階、地下2階。
竣工は1970年なので東急アパートメントアネックスと同時期。聖坂の途中にある。
見上げると迫力があった。
路面から顔を覗かせる東京タワー。大使館の上からはきれいに見えるはず。
その先にあった小さな祠は亀塚稲荷神社。
境内に港区指定文化財の「弥陀種子板碑」があった。秩父青石(緑泥片岩)の石板の供養塔には文永3年(1266)と刻まれている。
薄い小さな石碑がひっそりあった。
その先に年季の入った工事現場が。
建築というより彫刻のよう。
かつてタモリ倶楽部でも取り上げられていた「アリマストンビル(蟻鱒鳶ル)」だった。聖坂中腹にある。
覗くと要塞のような室内。完成前から遺跡の雰囲気があった。
建築者、岡啓輔氏のサイト、蟻鱒鳶ル保存会
2005年の着工以来、沢山の友人達に手伝ってもらいながら、植物のように、ゆっくりゆっくり出来ている小さなビルです
すでに10年かかっている。いつから住めるのか。
鉄筋はさらに上を目指して。
坂の上から見たら、造っている方(?)が座っているのが見えた。
坂の向かいには普連土学園。
その隣に阿含宗関東別院。
その向かいに聖坂の標柱が立っていた。
ひじりざか
古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。
坂下から見上げる聖坂。お寺・学校・大使館が並ぶ道。
聖坂について、下記の本で山野勝氏は「明るく、のびやかで、大人(たいじん)の風格を持った名坂の一つ」とコメントしている。
坂下で左に登る坂があった。
潮見坂。
坂上から芝浦の海辺一帯を見渡し、潮の干満を知ることができたため、この名が付けられた。
その坂上から。かつての面影は全くなかった。
帰りは田町駅から山手線に乗ったが、田町という地名はなかったので、 Wikipediaで調べてみたら、「田畑が町屋や移り変わった」ことからついた江戸期からの地名であり、面白い変遷があったことを知った。
田町という駅名は、三田口(西口)周辺一帯に広がっていたかつての町名からとられたものである。『文政町方書上』によると、江戸時代に田畑が町屋へと移り変わったため、田町と呼ばれるようになったという。
明治初期は頭に芝を付けて「芝田町」と呼ばれていた(その後、1911年5月に「芝」の冠称が省かれる)。海岸に面した細長い範囲の町で、この海岸線に沿った海上防波堤の上に鉄道が敷設された。
1909年、この鉄道の新駅として、田町駅が芝田町一丁目に設置された。現在の芝浦口(東口)周辺一帯は当時まだ陸地ではなく、1913年に埋め立てられてから工業地帯へと変貌を遂げた。この芝浦口周辺は新芝町(後の西芝浦一丁目)と名付けられた。
駅名に採用された田町は、港区の発足した1947年に再び芝田町に町名変更となった。その後、住居表示実施に伴う町名・町域の変更により、1964年7月に一部が芝五丁目に、1967年4月に残りの全域が三田三丁目になり、地名としての田町は消滅した。