墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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高輪大木戸跡 東京都港区高輪

都営浅草線・京浜急行が通る泉岳寺駅へ、「ガード下」を見に行った(それは次回)

A4出口から左へ行ってすぐ、第一京浜(国道15号)に接して、江戸時代の大木戸の遺構(石垣の一部)が残っていた。

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説明板も。

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史跡 高輪大木戸跡

所在地 港区高輪2-19

指定 昭和3年2月7日

高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛政4年(1792)など諸説がある。

江戸の南の入口として、道幅約六間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は門を閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。

天保2年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰。常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。

京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる湾岸の景色もよく月見の名所でもあった。

江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4m、長さ7.3m、高さ3.6mの石垣のもいが残されている。

四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史跡名勝天然記念物保存法」により内務省(現文部省所管)から指定された。

平成5年3月31日建設 東京都教育委員会

 

石垣の南側にはちょっとしたスペースがあった。

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少し引いた位置から。円墳のような趣き。

ここを避けて第一京浜が整備された感じ。

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下記のサイトの浮世絵に19世紀江戸時代の高輪大木戸の様子が明瞭に描かれていた。

港区ゆかりの人物データベースサイト 高輪大木戸

かつてはここが海岸線だったことがよくわかる。

つづく。