前回のつづき。
大仙公園の円墳型ミニ展望台(七観山古墳跡)から履中陵(りちゅうりょう)の後円部全容を眺めた後、道路をわたって履中陵東辺に沿った小道を南下した。
小道にはいってすぐのところ。左が古墳で濠際が土手のように高くなっていた。
右は住宅地が続く。最初だけ僅かに下りの傾斜がある。
土手に上がる階段があり上っていくと柵があった。
柵の向こうに後円部の山があった。濠はかすかに見える程度。
再度小道に降りて進むと徐々に土手が低くなってきた。濠際には児童公園もあった。古墳に見守られながらのすべり台。
濠の水面がはっきり見えてきた。前方部左裾から後円部方向になる。
住宅地は立派な家が多かったが、小道沿いのこちらは特に大きかった。
表札には日本を代表する企業として聞いたことがあるお名前があった。
なぜ大仙公園に自転車博物館があったのか理解できた。
こちらのブログでは記念館(非公開)として紹介されていた。
ちょうどそのあたりからは、履中陵前方部裾がよく見える。
左は前方部の底辺になる。正面の濠の左右幅は60m弱、奥の西辺の岸までは370m。
全国第3位の履中陵の大きさを感じられたポイントだった。
下は堺市博物館で購入した履中陵の絵葉書。上記の位置は右下の隅。
もちろん立入禁止だが排水施設のような場所もあった。
上記の位置から来た道を振り返って。桜並木が続いていて春は花見コースとなるそうだ。
このあたりで少し迷い、一旦大周りをして大通り(府道34号)に出て、しばらく行くと拝所の入口があった。
入口は両脇に民家が迫っている。
宮内庁の「履中天皇 百舌鳥耳原南陵」の立札も。書かれている内容は仁徳天皇陵と同じ。
他には誰もいない静かな空間だった。
こちらは鳥居の先に豊かな水面が見える。
以下は、堺市のデジタル古墳百科より。
履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳・石津ヶ丘古墳・百舌鳥陵山古墳) 堺市
石津ヶ丘にある前方部を南に向けた前方後円墳です。
現在は百舌鳥耳原三陵の南陵・履中天皇陵として宮内庁が管理しています。
墳丘の全長約365メートル、後円部径205メートル、高さ約27.6メートル、前方部幅約235メートル、高さ約25.3メートルの規模で、日本で3番目の大きさの巨大前方後円墳です。
墳丘は3段築成で、西側のくびれ部には造出しがあります。
主体部の構造や副葬品などはわかっていませんが、葺石と埴輪があり、一重の盾形周濠と堤がめぐっていますが、平成6年(1944年)に、外側に幅10メートル程の2重目の周濠が見つかっています。
陪塚は、10基以上あったことがわかっています。そのなかの七観山古墳は出土資料などから、仁徳天皇陵古墳(大山古墳)よりも古くに造られたことがわかっています。
江戸時代の記録では、後円部中央に大きなくぼみがあったといわれていることから、すでに盗掘を受けている可能性があります。
前方部を下から見ていることを認識できた。しばし佇んだ。
参拝して清々しい気持ちになった。まさに神社の原点か。
鳥居前から後ろを振り返ったところ。屋上テラスのあるお宅が多い印象。
拝所の一隅、土浦の亀城公園でも見たオレンジの花。
上野芝駅に向かって左手に墳丘を見ながら歩く。とある駐車場奥の家。こんなところで暮らせたら幸せでしょう。
上野芝駅は駅舎が橋上にあった。通路の窓から履中陵がしっかり見えた。
JR阪和線では101系が京浜東北線のかつてと同じ色でがんばっていた。
つづく。