墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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堺市博物館 大仙公園 大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町

前回のつづき。

仁徳天皇陵を拝所から参拝した後、通りを渡って大仙公園に入った。

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以下はWikipedia-大仙公園に一部手を加えた。

公園内には複数の古墳が点在し、堺市博物館、自転車博物館、堺市立中央図書館、堺市茶室「伸庵」「黄梅庵」、堺市都市緑化センター、平和塔、日本庭園などの施設がある。日本の都市公園100選、日本の歴史公園100選。

寛永年間に幕府代官・高西夕雲と堺の豪商・木地屋庄右衛門が開発した夕雲開(せきうんびらき)と呼ばれる新田だった。1925年に大阪農学校が堺市大仙町(大仙公園北側、後の大阪女子大学校地)へ移転して来てその農地となったが戦後の復興都市計画で公園指定され、大阪府立大学農学部(旧大阪農学校)の移転後(1966)に都市公園としての整備が進んだ。

 

仁徳天皇陵と履中天皇陵は上下に直列に並ぶが、その間に大仙公園がある。

 

こちらは公園内にある、孫太夫山古墳。仁徳天皇陵の現存する16基の陪塚(ばいづか・ばいちょう)のひとつ。

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博物館へのアプローチの途中には2棟の茶室が移築されている。どちらも国登録有形文化財。外観のみ無料で見学できる(9:30~16:30)

伸庵(しんあん)

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以下もWikipedia、大仙公園から一部を加工。

明治から昭和にかけて多くの茶室を残した数寄屋普請の名匠・仰木魯堂(おおぎろどう)が1929年(昭和4)に建てた。以前は東京・芝公園にあったが、福助が寄贈し、1980年に現在の地に移築された。玄関横に設けられた立礼席は、移築の際に加えられたもので、一般の人もお茶を楽しむことができる。

 

黄梅庵(おうばいあん) 

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こちらも。

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こちらは縁側にあった説明板に一部付加。

奈良県高市郡今井町を代表する商家(堺の商人、今井宗久所領)の豊田家(国指定文化財)で、江戸時代から使われた茶室です。その後、近代茶室を推進した数寄者の一人で、四天王とも称された松永安左エ門 (1875~1971、日本の電力王、茶人の号は耳庵)が昭和23年に小田原の地に移築・再興したものです。

堺と歴史的に関係深い京都・大徳寺の立花(橘)大亀和尚の仲介により、堺市が千利休のふるさととして「伸庵」とともに寄贈をうけ、昭和55年の博物館開館に合わせて再移築されました。

さらに詳しい説明板もあった。

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堺市博物館は大きな石板を貼りめぐらせた堂々とした建物。

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入館料は200円。百舌鳥古墳群シアターは無料で見られる(下記の動画とは異なっていると思いますがイメージで)

 

展示は、仁徳陵の古墳時代と自由都市堺の江戸時代の2テーマが中心。この日は下記の企画展もあった。

企画展 昭和へタイムトリップ ‐吉田初三郎のパノラマ世界‐ 堺市

 

団体グループが数組入っていて結構賑わっていた。左は仁徳陵石棺のレプリカ。後円部と前方部の双方で長持型石棺がそれぞれ江戸期、明治期に確認されている。

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前方部の石室調査(1872年:明治5年)で副葬品として甲冑が見つかっている。そのレプリカの着装体験ができる。

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その展示用の復元品、小札鋲留眉庇付冑(右)と、巫女形埴輪の副製品(左)どちらも5世紀中頃。

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左の巫女さんの実物とは、2年前に江戸東京博物館で対面した。

 

こちらは、いたすけ古墳から出土の「衝角付冑形埴輪(しょうかくつきかぶとがたはにわ)」5世紀前半 展示物はオリジナル。大きさも実物大くらいありそうだった。

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解説では「いたすけ古墳」 にも触れていた。

いたすけ古墳は、墳丘の長さ約146mの前方後円墳で5世紀前半に築造されたと考えられます。

昭和30年(1955)には、住宅開発により壊されそうになりましたが、考古学者や市民を中心とした運動によって古墳は買収・保存されることになり、翌年には国の史跡に指定されました。

これは、全国各地で起きた遺跡保存運動の先駆けとして、その後の埋蔵文化財保護にも大きな影響を与えました。

後円部から出土した衝角付冑形埴輪は、堺市の文化財保護のシンボルとして平成13年(2001)には堺市指定文化財に指定されました。

 

こちらは日置荘西町窯跡群から出土した人物埴輪。6世紀中頃。腕の形が有名な「踊る人々(埼玉県江南町野原出土:東博蔵 6世紀 指定はなし)」によく似ていた。

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ON231窯(陶邑窯跡群、野々井西遺跡)から出土した須恵器の把手付椀(5世紀前半)は、デザインが今とまったく変わらないので驚いた。

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仁徳天皇陵の築造時の様子の再現。かつては全面が葺石で覆われ、円筒埴輪列で結界されていた。

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堺市博物館は実際の展示物だけでなく、ウェブサイトも充実している。→デジタル古墳百科>古墳探索 堺市

 

古墳コーナーの先には中世から近世、近代の堺の様子がジオラマや町屋復元建物なども含めて展示されていた。

下は慶長15年(1610)製造の慶長大火縄銃。

長さ3m、重さ135kg、口径3.3cmで現存する日本最長・最大の、おそらく世界一長い火縄銃、とのこと。

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屋外には家形石棺も

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家形石棺 養寿寺旧蔵

刳抜式家形石棺の身で、全長198cm、幅85cn、高さ55cm、重さ1.5トン。石材は、兵庫県加古川付近に分布する竜山石(流紋岩質溶結凝灰岩)を使用している。

出土地は不明であるが、身と蓋との組み合わせが印籠式となっていることから、藤井寺市長持山古墳二号墳や唐櫃山古墳(からとやまこふん)の石棺と同様の古式の家形石棺に属するもので、およそ5世紀後半のものと考えられる。したがって、あえて出土地を想定するならば、5世紀から6世紀にかけて築造された百舌鳥古墳群中のいずれかが考えられるだろう。

また堺市内では、他に百舌鳥45号墳、47号墳(上野芝町)、湯山古墳(見野山)において、6世紀の組合式家形石棺がみられるだけであり、この石棺は、畿内の家形石棺を研究する上で重要な資料であるといえる。

 

地階には立体パズルや復元品にさわれる、無料の体験学習コーナーも。

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博物館のショップでは絵葉書(古墳の航空写真)5枚、子供向け古墳のガイドブック、過去の企画展資料(大和川筋図巻をよむ)を購入した。

 

こちらの「古墳のなぜ?なに? 百舌鳥古墳群ガイドブック」は100円だが、わかりやすい解説でとてもためになった。

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一部を抜粋(4頁のかいせつ1 古墳をつくる場所)

はじめのころの古墳は、山や丘などを利用していました。でも、百舌鳥古墳群のあるところは、高さ20mほどの台地の上です。

この台地は、大阪城のある付近から海岸沿いに堺まで続いている「上町台地(うえまちだいち)」という高台です。

大きな古墳はバラバラにあるようですが、よくみると、ふたつのグループがあります。

反正陵、仁徳陵、履中陵の三つの古墳はだいたい南北方向にならび、ニサンザイ古墳、御廟山古墳、いたすけ古墳などは東西方向にならんでいます。古墳は、地形的につくりやすい方向をえらんでつくると考えられていますが、南北方向にならんだのは、海の方から大きく、りっぱに見えるようにつくったためではないかという意見があります。

 

こちらは絵葉書。@100円

奥が北側で仁徳陵、手前が履中陵で仁徳陵との間が大仙公園。

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北東側からの仁徳陵の絵葉書写真。やはり飛行機から見たい・・・

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博物館の入口は建物北側にあるので、履中陵に向かうにはぐるっと園内を回る。時計回りに回っていくと、グワショウ坊古墳。直径58mの円墳。説明板には「小さな」円墳という形容詞あったが、朝に見た藤ノ木古墳より大きい。

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周囲に濠があり、墳丘上は保存林になっていた。

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こちらは旗塚古墳。

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冬なら墳丘に上がれそうな気配はあるが今の季節は難しそう。

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公園内は結構アップダウンがある。

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公園内だが履中陵に近い七観音古墳。

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説明板があった。

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七観音古墳 古墳時代中期・5世紀 海抜19m

これは、丸い形の古墳(=お墓)で円墳と言います。大きさは直径が25m、高さが約3.5mあります。堺市の調査では、古墳の表面に並べていた石(=葺石)や、古墳に立てられていた埴輪のかけらなどが見つかっています。

1950年頃までは、この古墳の西側に七観山という直径50mもある大きな円墳がありました。そこからは、よろい、かぶと、金メッキをした帯の金具(堺市博物館に模型があります)、刀、馬具(=馬に乗る時に使う道具)などいろいろたくさん発見されました。七観音古墳と七観山古墳はどちらもすぐ南にある履中陵(前方後円墳)の近くにあることから、履中陵と関係の強い古墳と考えられます。

現在は、荒れていたこの古墳を保護するために盛り土をしています。

 

さらに進むと、案内図にあるミニ展望台が見えてきた。現地では全くの「擬似古墳」だと思っていたが、エントリを書くために七観音古墳の説明を読んでいて、50年ほど前に削平されたほぼ同じ場所に「展望台」が造られたのだと知った。

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「墳丘」からの眺め。履中陵がよく見えた。濠も見えて嬉しかった。

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仁徳陵の眺望はなかった。奥の山裾がそのはずだが、樹木が茂っていてよくわからなかった。

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いざ履中陵へ。

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公園出口からの「ミニ展望台」 芝生が貼られている半分は、かつての七観山古墳と同じ2段築成。

七観山古墳(の復元)と呼んであげたい・・・

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道をわたって、履中陵に沿った小道に入った。

つづく。