前回のつづき。
土浦市立博物館を見学した後、博物館の北西にある「郁文館正門」の建物を目指した。博物館の石垣のような建物は迫力があったが、となりの写真館も堂々としていた。土浦はかつて海軍の町だったので、写真館(家族に送る)と時計屋さんが今でも多く残っているそうだ。
通りの背後、北側は神龍寺(じんりゅうじ)
博物館でいただいたパンフ(遊覧都市つちうら)によれば、創建は天文元年(1532)で江戸時代に土浦藩主土屋家の菩提寺となって庇護された。「土浦全国花火競技大会」は、当山住職の秋元梅峰が中心となって、霞ヶ浦海軍航空隊殉職者を弔う目的で始められたのだそうだ。
再び博物館の通りの沿って歩く。古そうな木造家屋が残っていた。
その、斜向かいに郁文館正門があった。
説明板もある。
市指定建造物 郁文館の正門
土浦藩の藩校、郁文館の名称は、第七代藩主土屋英直が名付けたもので、はじめは土浦城内に置かれていた。
天保10年(1839)第十代藩主、土屋寅直の時、ここに新築して移った。一名、文武館ともいい、文館と武館にわかれており、学者として有名な藤森弘庵や剣客の島田虎之助が指導にあたっていた。
その後、明治・大正時代にも洋学校化成館、新治師範学校、土浦高等小学校の校舎として使用されたが、昭和10年(1935)に取り壊され、この正門だけが唯一の遺構となった。
解体復元工事にあたり、地盤沈下による建物の不同沈下防止のため地面下の基礎はPC杭で支持した。また、調査の結果、木材表面に酸化第二鉄(ベンガラ)を検出したことから赤門に復元した。平成元年3月 土浦市教育委員会
門の表札は「土浦市立土浦第一中学校」になっていた。
門の脇に鉄骨で補強された歩道橋があった。
歩道橋から見た郁文館正門の屋根。背後は土浦一中の体育館。
歩道橋からは中学校内へ降りる階段もあった。正門を校内側から撮らせていただいた。
亀城公園の濠の外側の道を南へ向かう。道沿いにあった聖バルナバ教会。
土浦聖バルナバ教会のサイトによれば、1930(昭和5)年竣工の建物。窓が小さいが力強い雰囲気があった。
その向かいには真新しい校舎。
土浦市立土浦小学校だった。2014年1月に改築されたばかりで、各階の廊下は100mを超えるそうだ。
そして再び外濠を渡って亀城公園にはいった。石橋の上から。
つづく。