前回のつづき。
竹早中学から春日通りを東に向かった。通り沿い左側はマンションが立ち並ぶが左に入る道がない。地図をみたら裏はずっと竹早高校の敷地だった。350mほど進むと左に細道があり、途中で右折すると墓地の裏手に出て空が広がった。
墓地の隣には、古くはないが人のいないマンション(ニュー廃墟?)があった。
その先が伝通院の山門だった。春日通りから山門までは幅広の道路が150mほど伸びる。
白木の色が残る新しい山門(2012年3月再建)
18時近かったが山門は開いていたので入らせていただいた。
本堂は扉が閉まっていたので階段下から参拝。
その左手に進むと案内板があった。
傳通院の墓所
当山は、応永22年(1415)、浄土宗第七祖了譽聖冏上人が開山されました。当時は小石川極楽水(小石川4丁目)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。
それから約200年後の慶長7年(1602)8月29日、徳川家康公の生母於大の方が75歳、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになり、以来千姫(天樹院殿―二代将軍徳川秀忠公・於江の方の長女)や孝子の方(三代将軍徳川家光公の正室)、於奈津の方、初姫など多くの徳川家の子女達が埋葬されるようになりました。
当山には開創600年におよぶ長い歴史の側面を物語る著名な方々のお墓が現存しております。
史蹟めぐり、ご見学者の皆様へのお願い
お参りなされる方は、必ず観音堂にお立ち寄り頂き、お声掛け下さい。
観音堂にて、お線香、おしきび等をお買い求め下さい。
- まずは本堂にご参拝ください。
- 「参拝のしおり」は観音堂にご用意しています。
- 徳川家ゆかりの方々のほか歴代墓のお墓にもお参りしましょう。
- 境内での飲食は慎んで下さい。飲食は観音堂総合案内所内でお願いしております。
お帰りの際は観音堂までお声をお掛け下さい。 無量山 傳通院
観音堂の建物配置などはお寺のサイトに詳しい。傳通院・伝通院
時間が遅かったせいか観音堂は閉まっていたので、参拝図を見て墓地の参拝もさせていただいた。
了譽聖冏上人および歴代上人のお墓がずらり。
墓地側からは本堂屋根の妻側が見える。葵の御紋があった。
観音堂の奥に、於大の方の大きなお墓があった。
以下は説明板より。
於大の墓 (区指定史跡)
享禄元年~慶長7年(1528~1602)、徳川家康の生母。三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む。
後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。
法名、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。
東京都文京区教育委員会 昭和62年3月
さらに奥に、千姫のお墓。
千姫の墓 (区指定史跡)
慶長2年~寛文6年(1597~1666)。二代将軍秀忠の娘。
慶長8年(1603)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大阪城にはいる。
元和元年(1615)城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子、忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。
東京都文京区教育委員会 昭和62年3月
千姫のお墓を横から。右奥は亀松君(三代家光次男)のお墓。高さ3mはありそうな五輪塔が立ち並ぶ。
通路を隔てて、孝子のお墓。
孝子の墓 (区指定史跡)
慶長7年~延宝2年(1602~1674)。孝子は三代将軍家光の正室、前関白鷹司信房の娘。元和9年(1623)京都から江戸に下り江戸城西の丸に入る。寛永2年(1625)家光と結婚するが、公家出身で武家の生活になじめないまま73歳で没す。
東京都文京区教育委員会 平成2年3月
以下は明治からの伝通院の歴史をWikipediaから転載。
明治維新によって江戸幕府・徳川将軍家は瓦解し、その庇護は完全に失われた。明治2年(1869年)に勅願寺となるが、当時の廃仏毀釈運動(仏教排斥運動)のために塔頭・別院の多くが独立して規模がかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなった。同じ浄土宗である信濃の善光寺とも交流があった関係で、塔頭の一つ縁受院が善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっている。縁受院は明治17年(1884年)に善光寺と改称して現在に至る。明治23年(1890年)に境内に移した浄土宗の学校を元に淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部)を創立した。また、明治時代になって墓地が一般に開放されるようになると、庶民の墓も建てられるようになった。
昭和20年(1945年)5月25日のアメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した。かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。昭和24年(1949年)に本堂を再建。現在の本堂は、昭和63年(1988年)に戦後2度目に再建されたものである。平成24年(2012年)3月には山門が再建された。
境内側から見た山門。
7月18・19日では「朝顔市」、近くの源覚寺では「ほおづき市」が開催される。
もうそんな季節になろうとしている。今回は観音堂をお参り出来なかったので、この機会で再訪したい。
山門の外、左側には大きな字が刻まれた石柱があった。
以下説明板より。
浪士隊結成の処静院(しょじょういん)跡の石柱 伝通院 小石川3-14-6
この石柱は、伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院(ふくじゅういん)北側にあった処静院の前に建っていたものである。
石柱の文字は、修行と戒律の厳しさを伝えている。
処静院は、その後、廃寺となった。
文久3年(1863)2月4日、幕末の治安維持を目的とした組織「浪士隊」の結成大会が処静院で行われた。
山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人、その後浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。
一行は文久3年2月8日、京都へと発った。年号が明治と改まる5年前のことだった。
~郷土愛をはぐくむ文化財~
東京都文京区教育委員会 平成元年3月
門を出た後、門前を横切る善光寺坂を東に下っていった。
ちなみに、春日通りの由来である春日局(かすがのつぼね、三代家光の乳母)は、屋敷跡(出世稲荷)がLaQuaと白山通りを挟んだ向かい(本郷1-33-17)にあり、菩提寺の麟祥院(りんしょういん)が春日町交差点から春日通りをさらに1kmほど東に行ったあたり(湯島4-1-8)にある。
徳川家康との関係からいえば、「春日通り」よりも「伝通院通り」が相応しいのでは、と思ったが、春日局が拝領して町屋にした場所が拡大し「春日町」となった結果だった。
つづく。