墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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旧白山御殿町界隈 御殿坂 東京都文京区白山~小石川

茗荷谷で夕方まで打ち合せがあり、終了後に小石川植物園の南側を徘徊した。

バス通り沿いにあった小石川消防署。大きな建物だが門が立派だった。

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通りに設置された旧町名案内板。そういえば前回のタモリ倶楽部でも浅草にあった「象潟(きさかた)」探しをやっていた。

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旧白山御殿町(昭和41年までの地名)

町の大部分は、白山御殿の跡である。

承応元年(1652)館林藩主徳川綱吉が、別邸を与えられた。ここは白山神社の鎮座地であったので、白山御殿(小石川御殿)と称した。綱吉が五代将軍に就任後、御殿は廃止されて幕府の御薬園となった。それで付近の土地を併せて白山御殿跡地と称した。

周辺を合併して明治24年、新たに町をおこした。町名は、俗にいう白山御殿跡から白山御殿町とした。

小石川薬園は、明治10年、東京大学付属の小石川植物園となった。また、江戸時代から小石川養生所が薬園内に置かれた。青木昆陽が甘藷の試作を行ったのも、この薬園内であった。文京区

 

検索していたら、はてなダイアリで深く探求されている方がいらした。

 

通り沿いには懐かしい風情の材木屋さん。

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その先には共同印刷の大きな建物群がある。

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共同印刷正面は桜並木で有名な播磨坂の下。

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小石川植物園は閉まっていた(9:00~16:30、入園は16時まで。月曜休) 

植物園の南西に沿って700mほど小道があり、前はコンクリの塀が続いていた。下記はストリートビュー(2014年6月)

 

それが大工事中になっていた。一部発掘調査も進められているようだった。

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植物園側の敷地を削って歩道をつくっていた。前の塀は「万年塀」というのだと初めて知った。

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工事の帯の内側(植物園側)にあった雰囲気のあるアパート。残るのだろうか。

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植物園の東端に沿ってあるのは御殿坂。真新しくなっている雰囲気。歩きやすい歩道。きれいな石垣。

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坂の説明板もあった。

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御殿坂(大坂・富士見坂)

「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや」(改撰江戸志)

「享保の頃、此の坂の向ふに富士峰能く見へし故に、富士坂ともいへり」(江戸志)

白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林侯時代の屋敷で、もとの白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。

綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保7年(1722)園内に”赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷の試作をした。

明治になってからは東京大学の付属植物園となった。

   植物園の松の花さへ咲くものを

    離れてひとり棲むよみやこに 若山牧水(1885~1928)

文京区教育委員会 昭和58年6月

つづく。