墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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重要文化財・築地本願寺 東京都中央区築地

前回のつづき。

二重橋からの帰路、少し時間があったので築地本願寺に立ち寄った。

日比谷線築地駅降りてすぐ目の前。異国情緒が漂う。

新大橋通りに正対して北西方向を向いているので、夕方の方が撮影に適している。

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 昨年(2014年)重要文化財に指定されたばかりで、建物正面の右側柱には「重要文化財指定」の懸垂幕が掲げられていた。

竣工は1934年(昭和9年)

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設計は伊東忠太。東京都慰霊堂と復興記念館も手がけている。

 

全体をインド風に印象づけている、特徴的な破風。

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両翼にはストゥーパのような尖塔。

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こちら斜め横からだと、ロールケーキのような屋根の形がよくわかる。

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正面石段のリズミカルな手すりと、古代メソポタミア風(?)の狛犬(獅子?)

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石段横に、設置されたばかりの詳細な説明板があった。

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重要文化財 築地本願寺 一棟

附 正門・北門・南門(各一ヶ所)、石塀(五基)

浄土真宗本願寺派(京都西本願寺)の直轄寺院・築地本願寺は、江戸時代初期の元和3年(1617)、浅草近くの横山町に創建されました。

江戸浅草御坊と称された当寺院は、明暦3年(1657)の大火で焼失した後、現在地に移転・再建されました。特に本堂の大屋根は、江戸湊に入る船の目印であり、江戸庶民によく知られた名所の一つでした。

江戸時代から明治期にかけて何度か再建された木造の本堂は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した後、昭和9年(1934)に現在の本堂(鉄骨鉄筋コンクリート造、地上2階、地下1階)となりました。

西本願寺22世宗主・大谷光瑞の依頼を受けた、設計者の建築家・伊東忠太(1867~1954)は、日本の伝統的な寺院様式ではなく、仏教の発祥地であるインドの建築様式を独自の解釈で外観に取り入れ、特異な雰囲気をもつ伽藍を創出しました。

花崗岩が用いられた建物中央の本堂は、上部に銅板で葺いた巨大な円形屋根がのせられ、左右対称にのびた翼部には鐘楼と鼓楼の塔屋を置き、正面中央と左右の入口には独特の曲線による破風を設けています。内部は伝統的な浄土真宗寺院の本堂形式でありながら、外観各部にはインド風の建築手法が見られ、入口の破風、柱頭飾り・屋根上の尖塔、さらに細部の装飾が一体となり、全体として調和のある外観を創り出しています。

当寺院本堂は建築家・伊藤忠太が最新の技術を用いて東洋的な建築を追求した典型例であるとともに、秀逸な建築デザインを保持する震災復興期の貴重な建造物といえます。また、本堂とほぼ同時期に建築された外周の石積塀や石造柱門〈正門・北門・南門〉も共通のデザインを踏襲しており、本堂と一体をなす貴重な建造物となっています。

これらの建造物は、平成26年に重要文化財として指定されました。

中央区教育委員会 平成27年3月

 

石段を上がると屋根のあるポーチのようになっている。四角い柱頭がアジアの雰囲気。

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下は説明板の図面で「広間」とあった場所。屋根つきポーチのような場所と屋内(外陣)へはいる扉との間にあるスペース。

階下に向かう階段の大理石の手すりや彫刻が素晴らしかった。

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上記の「広間」と「外陣」との間の扉の上には、見事なステンドグラスがあった。

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内部は教会堂のように椅子が並び、座ることができる。誰でも、心を静めることができる場所。

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内壁に沿って、設計者伊東忠太博士についての詳しい解説パネルがあった。

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中国、インド、トルコを旅した様子、大谷探検隊との出会いなどの解説もあった。 

大谷探検隊の名が、浄土真宗本願寺派第22代法主・大谷光瑞が派遣したことによるものだと初めて知った。

 

以下は伊東忠太 - Wikipediaより。

少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めた。「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った築地本願寺などの作品を残す。1943年(昭和18年)には建築界ではじめて文化勲章を受章した。