前回のつづき。
高浜神社で境内の巨木を鑑賞していたら裏がセブンイレブンだった。飲み物を買いに向かうと、店の前が恋瀬川だった。
愛郷橋の上から恋瀬川の上流方向。正面奥は筑波山。
橋の名前を調べていたら、恋瀬川に流れ込む魅力的な小川の写真が掲載されているつくば新聞のサイトに行き当たった。
また、サイクリング | 石岡市観光協会公式ホームページを見ていたら、石岡市の八郷地区には茅葺き屋根の建物が90棟近く残っているとの記述があった。次の機会には、久しくしてないサイクリング(今はポタリングと言うのでしょうか)もしてみたい。
恋瀬川というロマンティックな名前の由来はWikipediaを見ると諸説あるようだ。以下抜粋。
・江戸時代の名「鯉川」は「国府川」(こうがわ)の訛であり、国府川が「国府瀬川」(こうせがわ)となり、「恋瀬川」となった(『石岡市史』説)
・源流部にある足尾山の別名が小泊瀬(おはっせ・こはっせ)山であり、小泊瀬山から流れる川の意味で「小泊瀬川」となり、転訛して「恋瀬川」となった(『八郷町史』説)
・「小泊瀬川」を「小汨瀬川」と誤認し、「小汨瀬川」を「こいっせがわ」と読み、「恋瀬川」の漢字が充てられた(鈴木健の説)
・加波山神社由来によれば「天祖天照大神が高天原に五穀の種子を得させられ、之を天の狭田天の長田にお植えにになり、耕作の道をおさとしになられた、古事ををしのびいつの時代か郷人達伊勢に詣で御分霊を苔むす加波の水源を探って祭り、五穀豊作水量豊富を祈念し、小伊勢神社として御神徳を仰ぐこと久しかった。中古大江政国令嬢この山に登った時の和歌より今の文字を用いることになる。」(『霊峰加波山』昭和40年7月)
橋の上から振り返ると高浜神社の屋根が見えた。左の電柱の左側、瓦屋根との間に妻側屋根が顔を出している。背後は舟塚山古墳から連続する台地。
上記写真の右端に、台地上へ続く石段がある。近くに行ってみたらお堂もあった(知音院というお寺)
石段の上は墓地だったが霞ヶ浦が眺められた。
台地上には墓地が入り組んでいる。
その先は畑になり、さらに小学校があった。いかにも古墳がありそうな雰囲気を残す一帯だった。
小学校を回りこんで高浜駅に戻ったが、あとでその道沿いに物見塚古墳があったと知った。石岡市舟塚山古墳群物見塚古墳 » 埼群古墳館
駅前の観光案内図に未探訪の古墳がいくつも載っていてそそられたが、この日は車でなかったのであきらめた。
その代わり、石岡駅まで足を伸ばして常陸国分寺跡へ歩いてみることにした。
つづく。