前回のつづき。
取手で利根川を眺めたあと、ここまで来たからにはご挨拶をしておきたいと思い、高浜駅の近くにある舟塚山(ふなつかやま)古墳を目指した。
取手駅から高浜駅までは40分ほど。
駅から古墳までは約1km。駅を出て左へ歩き、踏み切りを渡ってゆるい坂を台地上に向かい、左へのカーブ途中の小道を入ると、その先にいかにも古墳のありそうな木立が見えてくる。
木立があるのは後円部の神社の周囲のみ。社の後ろ側に上ると、広大な芝生の墳丘が広がる。全長186m、東日本で2番目に大きい前方後円墳。
後円部墳丘上から前方部。
墳丘からは北に、筑波山の双耳峰が望める。
前方部左上から、くびれのカーブ、後円部。
前方部左裾、かつての周溝部分にある小道から。
自分が古墳の世界にハマった原点はこの古墳にあるように思う。自分にとっての、One of the best.
新しい説明板が設置されていたが、プチプチで覆われていて読めなかった。日付は3月だったが・・・
仕方がないので、前回訪ねた時の説明板から転載。
国指定史跡 舟塚山古墳
指定年月日 大正10年3月3日
舟塚山古墳は、南に霞ヶ浦の高浜入江を望み、西には筑波の霊峰を仰ぐ景勝の地にある前方後円墳である。
霞ヶ浦の両岸には多くの古墳群があり、その中央部の恋瀬川河口付近に舟塚山古墳が存在する。この古墳は、東国第二位、県内で最大の規模を誇り、現在の新治、行方、稲敷三郡を含めた地域の大豪族の墳墓とみられている。
舟塚山古墳の墳丘は、およそ全長186m・前方部幅100m、後円部径90m・前方部高10m・後円部高11mの規模を持つ。墳丘は三段に築造され、後円部径にくらべ前方部が長く、仁徳天皇陵(大阪府)やウワナベ古墳(奈良県)などに共通する特徴をもっている。周囲の堀は台地の南側が傾斜面に続くので、北側と同様の規模でめぐらすことはできなかったようである。
舟塚山古墳の墳丘の発掘調査はなされていないが、地元には、多数の刀が出土したという伝えがある。
昭和47年の舟塚山古墳周溝確認発掘調査で円筒埴輪が出土しているが、形象埴輪は確認されていない。また同調査で舟塚山古墳の陪冢と考えられる円墳から木棺が発見され、短甲・直刀・盾などの副葬品が出土した。舟塚山古墳は、これらの出土品及び墳形から、およそ五世紀後半の築造と推定されている。
昭和60年1月 石岡市教育委員会 石岡市文化財保護審議会
古墳の周囲の周溝に沿って道がついている。畑の畝もカーブに沿う。
横からパノラマ撮影。左が後円部、右が前方部。
高浜駅ホームから見た、墳丘のある台地(ズーム)
右側の「のり面」が途切れるあたり、木々の間からわずかに墳丘のカーブが確認できる。古墳は、かつて常陸国府や国分寺があった石岡から続く台地上の南端に位置する。
現在水田が広がる場所は、古代は湖が入り込んでいたはず。
このすぐ左に、北から恋瀬川が霞ヶ浦に流れ込んでいるが、恋瀬川を3~4km遡ると石岡の台地下に出る。
かつての重要な交通路だったに違いないこのルートから、木々を刈れば非常に目立つ場所に古墳は位置しており、ここも「見せる墳丘」だったと実感できる。
ちなみに、恋瀬川を地図で見ると、加波山の東を北上して板敷峠まで遡るが、その北側が先週行った桜川地区だった。
桜川が古来より「西の吉野、東の桜川」と並び称され、紀貫之が歌に詠むほどの名所だったのは、当時の重要な交通路に当っていたからでもあったのだろうと思った。
一方で桜川地区から流れ出る「桜川」は筑波山の西側を南下して土浦で霞ヶ浦に流れ込む。現在の合流地点から5kmほど上流の左岸には、石室から美豆良(みずら:角髪とも)の現物が出土した武者塚古墳がある。
2つの河川は、霞ヶ浦の「2つの耳」それぞれから北へのルートとなっている。
2つのエリアで交通路を巡った勢力争いがあって、勝った恋瀬川の側に大古墳が築造され、国府が造られたのでは、などと想像を逞しくしてしまった。