墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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大崎の桜(2015/3/31)東京都品川区

直前のエントリと時間が前後しますが、3月末の平日の昼に見た大崎駅周辺の桜です。

・居木神社の桜

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場所は大崎駅西口の台地上の縁になります。神社については下記を。

 

・目黒川(森永橋~居木橋)

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森永橋は、大崎駅南口を出て左に向かい、ゲートシティ大崎を通り抜けた先にあります。川沿いが桜屋根になっていました。

 

目黒川に対すると、花のスクリーンになります。

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対岸をパノラマで。

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居木橋から、上流方向。クルーザーが通っていきました。

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上記の左の岸に沿った車道、桜のトンネルの出口。

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・ONビル(神戸製鋼所東京本社)の北側斜面にある公開空地。

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崖の上と下とをつなぐ歩道になっています。

 

ONビルをバックに。

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崖上の小公園は花の天井になっていました。

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公園入口にあった説明板。ただの「公開空地」になっているので、この気持ちのよい場所にぜひ名前をつけて欲しいと思いました。

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少し長くなりますが、周辺の歴史がわかりやすく書かれていたので引用します。

地元(北品川)の歴史

◆北品川

「北品川」の地名は古く、戦国時代に小田原北条氏から北品川村宛の印判状が出された記録があり、室町時代にはこの地名で呼ばれていたようです。江戸時代から明治前期にかけて東海道沿いの目黒川以北を北品川宿と呼んでおり本陣1軒、旅籠屋2軒がありました。また、細川家・久留島家などの大名下屋敷や東海寺・品川神社などの寺社が多く、早くから開けていました。東海寺少林院は江戸文人のサロンの場として、多くの学者・文人を集めたといわれています。代表的国学者賀茂真淵の墓のある大山墓地には、江戸の著名な学者、文化人の墓が多く残されています。明治6年には現在の三共製薬敷地に官営品川硝子製作所(愛知県明治村に移築)が創設され、日本ガラス工業発祥の地となっています。

◆御殿山

御殿山は、長禄年間に太田道灌の館があったと伝えられています。また、江戸初期に将軍の狩猟の休息所や諸大名の参勤送迎のために御殿が建てられたところからこの名が付けられたと言われています。また、将軍家光・小堀遠州・沢庵和尚が茶の湯に興じた風雅の地でもあり、寛文期頃から吉野桜が植えられ、江戸百景の一つに数えられるほどの花見の名所となり、享保6年には狼藉を禁ずる制札が立てられるほど花見客で賑わったそうですが、嘉永6年の品川砲台(台場)構築と明治期の東海道本線敷設により一部が掘崩され昔の面影は失われました。江戸末期には英国公使館が建てられ、文久2年、高杉晋作らの長州藩士攘夷派による焼討ち事件の舞台ともなりました。明治期には西郷従道、その後戦前までは益田孝らの政財界人の邸宅もありました。

また、縄文時代前期の貝塚として知られる「御殿山貝塚」では、最近の調査で御殿山台地縁辺より弥生時代後期と古墳時代前期の住居跡が発掘されています。

◆居木橋

現在の環状6号線は、室町時代以前のころから品川から多摩方面に抜ける主要な街道であったそうです。品川宿から丁度1kmのこのあたりで目黒川を渡りますが、この川辺に風が吹くとゆらゆらと揺れる一本の松の木があったそうです。多摩方面から来た旅人はこの松の木が見えるともう品川宿も近いと思ったことでしょう。そしていつしかこの松の木を人々は「ゆるぎの松」と呼んだそうです。この「ゆるぎの松」が時の流れとともに変化し、しだいに「いるぎ(居木)の松」と呼ばれ、ここにかかる居木橋の名前の由来となったと言われています。当時の旅人に親しまれた「居木の松」も安政年間に暴風雨で倒失したとのことで、場所は定かではありませんが現在の森永橋の付近にあったと伝えられています。