前回のつづき。
国分寺市立四中のあたりにくると見事な桜並木があった。
フェンスの囲いも一部あるが、中学の正門からの道がついていて中に入れるようになっている場所。背丈ぐらいの高さで満開になっていた。
大きめのしだれ桜も。
よく見ると(右上)鳥たちが。
車に花模様を装飾できるエリア。
ここは新雪の上を歩く感じ。
丘の裾の方へ向かうと講堂跡。青・赤・白の傘を立てかけてのお花見組がいらした。雨は小止みになってきていた。
講堂跡の説明板があった。
講堂跡
講堂は、経典の講義が行われた建物です。武蔵国分寺の講堂は、桁行5間、梁行4間の二面庇の東西棟礎石建物として8世紀中頃に創建されましたが、9世紀後半に東西両側に各1間を増築して、金堂と同規模である桁行7間の四面庇建物として建て替えられました。
講堂の基壇は、創建・再建とも瓦積外装で、乱石積外装を施す金堂や七重塔とは大きく様相が異なります。建物の再建に伴って基壇自体も東西に増築しており、その規模は東西約42.2m、南北22.6mをはかります。
講堂基壇復元整備について
再建講堂の基壇を原位置にて復元しています。現地に残存していた礎石(5石)をそのまま見せつつ、地下遺構を盛土により保護したため、基壇の高さは実際の3分の1程度となっています。外装に用いた瓦・塼は、色や形にバラつきを持たせてあり、西面には鳩山町で市民が作成した瓦を、東面の中央1mの範囲には発掘調査により表土中から出土した瓦を使用しています。基壇上面では、疎石が失われている箇所に円形の安山岩を補充し、再建建物の範囲をレンガで表示しています。
鳩山町は埼玉県比企郡にある東日本最大級の古代窯業遺跡「南比企窯業群」の中心地で武蔵国分寺創建期の瓦の8割を生産していた(現地に解説パネルあり)
北側から。どれがオリジナル礎石かどうかまでは確認しなかった。
講堂跡の東隣にも公園が続いている。
ほんの少し色合いの異なる2本。
広場の中央には七重塔跡があった。
以下は説明板より一部を転載。
七重塔跡
国指定史跡武蔵国分寺跡
前略
この塔は「続日本後紀」によって承和2年(835)に雷火で焼失し、十年後に男衾郡(埼玉県比企郡)の前大領(さきのだいりょう:郡の長官)の壬生吉志福正がその再建を願いでて許可されたことが知られています。
昭和39年の発掘調査の結果、塔基壇が修復されていることや疎石の下に瓦片を大量に詰め込んでいることなどが明らかになり、このことが証明されました。
後略 平成6年1月 国分寺市教育委員会
桜を堪能しつつ崖線際に向かうと楼門に出た。
市指定重宝 国分寺楼門 昭和51年10月7日指定
建物は間口三間(約6.2m)奥行二間(約3.7m)の楼門造り、板金葺で、江戸時代の建築様式をよくとどめています。
この門は、米津出羽守田盛(通称内蔵助)の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したものです。(中略)
※米津出羽守 出身地は、三河国碧海郡米津村で出羽守田盛の時に久留米村前沢を知行地とする。石高は、一万五千石 大阪定番を勤める。 国分寺市教育委員会
楼門の先には現在の武蔵国分寺。
軒下の掘り物が見事。本堂左手から崖線中腹にかけて「万葉植物園」がある。
国分寺の前には「お鷹の道遊歩道」が通っている。このあたりが江戸時代には尾張徳川家の御鷹場だったことに由来するらしい。清流に沿って歩くとすぐに「史跡の駅 おたかカフェ」がある。
おたかカフェで武蔵国分寺跡資料館のチケットを販売している。一般100円。
長屋門(旧本多家住宅)が入口になる。この日はガイドの方がいらした。
庭には七重塔の推定復元模型(10分の1スケール)がある。
下から見上げて撮ってみました。
上下に動かすパノラマ で撮ったので若干歪んでいます。
こちらが資料館。
はいってすぐにジオラマが展示されている。北は左。手前左下で切れているのが東山道武蔵路。資料館の位置は左上。
瓦の展示室。絵が書いてあるものもあった。
縄文土器や中世板碑(供養塔)の展示コーナー。
古代駅路の地図もある。東山道武蔵路は国分寺と国分尼寺との間を南北一直線に通っていた。
銅造観世音菩薩立像 白鳳時代(7世紀末~8世紀)高さ28.4cm 重さ2,647g 都指定有形文化財
昭和57年に東山道武蔵路の調査で土の下から見つかった、出てきて間もない名品。「ブラタモリでも紹介された」とのパネルもあった。
下腹部を前方に突き出した姿勢。法隆寺の夢殿の救世観音と類似と解説にあった。凛々しい姿の名品です。
展示物を見たあとは庭も見学。野川の湧水源がある。
旧本多家住宅倉は登録有形文化財 明治33年築、昭和8年改修。
ここで資料館を後にして、再びお鷹の道をもときた方へ。崖線上へ向かう石段を上る。上から振り返った国分寺仁王門(宝暦年間1751~1763建立)
石段の上には市指定重宝の国分寺薬師堂。重要文化財の木造薬師如来像を安置する。薬師如来は平安末期~鎌倉初期の作、寄木造りの漆箔仕上げで像高191.5cm。毎年10月10日に御開帳があるそうだ。長く近くに住んでいたのに知らなかった。
その西隣りには元町八幡神社がある。正月に来た時には大きな太鼓が出て賑わっていた。
神社の境内には市指定史跡の「土師竪穴住居跡」もあった。
説明板によれば、僧寺と「同時代」の竪穴住居跡、四軒のうちのひとつ。4.0m×4.2mの方形で、北壁に竈が二ヶ所、東壁に一ヶ所設けられ、住居内部から完形の土器8点、塼1点などが出土している。
台地の端は古代から人々が暮らしてきた場所だった。
ここから北に多喜窪通りに出て帰路についた。
2年前は子供や甥っ子姪っ子と賑やかな花見だった。今回は昼の予定が合わなかったが夜は賑やかな食事会ができた。