前回の続き。
黒鐘公園の東隣、武蔵国分尼寺跡を含む国分寺市立歴史公園。ここ10年ほどで史跡公園としての整備が進んでいた。
武蔵国分尼寺跡
奈良時代中頃、聖武天皇の詔により鎮護国家を祈願する官立寺院として国分寺(僧寺)とあわせて国分尼寺が国ごとに建立された。
尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」と定められた。よるところの「法華経」は女人成仏を説いており、尼寺の成立には女人救済を願う光明皇后の意向が大きく働いたとも考えられている。
武蔵国では国府(現府中市)の近くで国分寺崖線を背にして南面する当地が好処として選ばれ、東山道(武蔵路)の西に尼寺、東に僧寺が配置された。
尼寺は東西に約150m、南北160m以上の範囲を素掘溝で区画した中に、南大門(未確認)・中門・金堂・講堂(未確認)・尼坊を中軸線上に並べ、中門から両翼に延びた掘立柱塀と素掘溝が金堂背後の東西に想定される鐘楼(未確認)・経蔵(未確認)と講堂背後の尼坊までをも囲んで閉じ、中枢部区画を構成する。僧寺も同様な配置であり、武蔵国分二寺の大きな特徴となっている。
北方崖線上には、伝鎌倉街道の切り通しが残る。街道に東面して設けられた中世寺院跡(伝祥応寺跡)は、かつて尼寺伽藍の想定地でもあった。その東側の武蔵野線との間に中世の塚があり、こちらも以前、国分寺に関連する土塔とされていた。
指定種別及び名称 史跡 武蔵国分寺跡(尼寺地区)
指定年月日 大正11年10月12日
追加指定 昭和54年5月14日、平成10年10月25日
後略 平成15年4月 国分寺市教育委員会
下記はマップ部分の拡大。南北に長く史跡公園として整備されている。
整備された金堂跡。奥は黒鐘公園の桜。
詳しい解説板もあった。割と「推定」が多い。
金堂跡
仏殿。本尊をおまつりする堂で、尼寺伽藍の中心にある最も大きな瓦葺建物。屋根の大きさに築かれた高さ1mほどの基壇上に建てられた。
僧寺と同じと推定される河原石による乱石積基壇や雨落石敷、階段などの痕跡は、一切残ってなかったが、かろうじて残存していた基壇掘り込み部(版築土)の規模と地上部の規模をほぼ同じと考えて東西26.7m(90尺)、南北18.5m(62尺)と復元した。
その上で、金堂外側の柱より基壇の縁までの距離を約3m(10尺)と仮定して建物規模を正面間口20.76m(70尺)、奥行12.56m(42尺)と推定し、土質舗装範囲で表示した。
外観は、屋根を寄棟造、正面間口の柱間を7間として想定した。正面中央5間と背面中央は両開きの板扉。正面両端間と側面・背面の一部は窓、その他は土壁。このため金堂内部には薄明かりがさし、扉がしまっていても真っ暗ではなかったと推察される。
広い堂内中央には須弥壇が据えられ、丈六の阿弥陀三尊像などの仏像が安置されていた。
金堂基壇北側には版築見学施設もあった。
その説明板。
金堂基壇(版築)断面
金堂基壇の残り状態は良くないが、掘り込み部の大きさをもとに、僧寺金堂を参考にして図のように想定した。乱石積基壇の地上高は0.9m(3尺)、石敷の雨落溝の幅は0.9m(3尺)
金堂基壇は土を層状に固めてつくったという工法により造られ、全部で30層が残っていた。下半部の7層はロームを主として極めて固く、中半部12層はローム塊を混ぜた黒色土を主として薄い層が連続し、上半部の11層はロームを主として1~10cm大の小石を多く混ぜている。
版築層の標本は、基壇南東部よりはぎとって採取したものであるが、基壇(版築)が失われているこの場所を利用して展示した。
版築:版築とは、木枠(版)の中に土を盛り1層づつ杵などでつき固める築造法で、古代の寺院や宮殿建築において欠かせなかった。
乱石積基壇:基壇の外装に玉石を用いたもの。
雨落溝:建物の屋根からの雨水を集めた溝
千葉県市原市の上総国分尼寺跡では回廊の跡も見つかり建物も復元されている。こちらも現地の建物を実際に見ることを強くお勧めします。
武蔵国分尼寺跡では実物の出土礎石も何気なく展示されていた。
解説によれば整備前の確認調査で出土したもので、左の大きな石は700kgある。石材は僧寺礎石と同じチャートで、奥多摩で採取し運搬されたものであろうとのこと。
武蔵野線をくぐって府中街道を渡り国分寺跡の方へと向かった。途中、国分寺市立4中の一角にある、国分寺市文化財資料展示室。入館無料。
鍛冶工房跡が見つかった市立四中敷地から出土した瓦、土師器、須恵器、灰釉陶器等などの展示や、国分尼寺跡の整備事業の紹介、住田正一古瓦コレクションの一部、中世の板碑が見られる。文化財資料展示室|国分寺市
この日はここには寄らず、この先の武蔵国分寺跡資料館を目指した。
つづく。