4/4の土曜日の午後から、龍禅寺三仏堂の特別公開を見ようと思って再び取手を訪ねた(が、公開日は4/10~12であり自分の早とちりで、内部拝観はできなかった)
下記の東漸寺を訪ねた際、茅葺復元の龍禅寺三仏堂の公開があると知り、優美な屋根のカーブの写真に惹かれて取手を再訪した。
今回は車で。常磐道を谷和原ICを降りて国道294号を南下、6kmほど行った稲戸井駅(常総線)駅の近く。
沢山人が来ているだろうと思いつつ、車が停められるか心配しながら行ったら、しーんと静まり返った境内だった・・・
扉はぴったり閉じていたが、誰もいない中で、さまざまな角度から外観を堪能した。
正面から。
下記は取手市のサイトより。
取手市内唯一の国指定重要文化財です。
正面三間、側面三間で左右と背面に裳階が付いています。三方に裳階が付く形式の建物は、他に例を見ません。屋根は寄棟造りで茅葺きです。内部は外陣と内陣に分かれ、内陣には禅宗様の須弥壇が置かれ、三仏堂の名称の由来ともなった釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩の三体の仏像が安置されています。
昭和60年(1985)1月から61年10月にかけて解体修理が行なわれ、創建当初の姿に復元されました。この時に、永禄12年(1569)の墨書のある木札が発見され、この年代には三仏堂が建立されていたことが裏付けられ、さらに建物の様式などから16世紀前半の建立と推定されます。
右斜め後ろ側から。微妙な凹凸が素晴らしい。後世に残したい。
パノラマ撮影。左手に本堂がある。
裳階の板塀の模様が面白かった。
説明板もあった。
国指定重要文化財 竜禅寺三仏堂
時期―室町時代後期
規模―間口三間(6.395m)、奥行四間(7.309m)
特徴―北相馬郡に残る中世建築として当初の姿を忠実にとどめており、中世から近世にかけての建築の流れを知る上に貴重な遺構である。
三仏堂は延長2年(924)の創建と伝えられ、釈迦、弥陀、弥勒の三仏をまつる。現在の建物は建築様式から室町時代後期のものと推測され、さらに内部にあった永禄12年(1569)の木札から詳しい年代がわかった。三間堂の平面であるが、正面に一間外陣を儲け、さらに両側面と背面にもこしをつけた構成になっている。組物は出組と平三斗で、木鼻と板蟇股に簡素な彫刻がある。彩色はない。屋根は茅葺の寄棟で軒を二重にしている。解体したとき、材料のいたる部分に梵字で経文が書かれており、さらに仏壇下の地下に壺が埋められていた。
禅宗様と和様の混合した建築様式に加え、特異な平面形式はこの建物をほかに類のないものとしている。
平成2年5月 取手市教育委員会
二重の軒がある優美な曲線。
正面の門から。左手の管理事務所も現役だが年季が入っていた。
正面の門の外側にも説明板があった。読むにはちょっと高い位置にある。
前の説明と重なるが、昭和60、61年の解体修理の前の状態を表しているので転記(一部省略)
国建第1978号
竜禅寺三仏堂 一棟
指定年月日 昭和51年5月20日
所在地 取手市大字米野井
管理者 竜禅寺
(前段省略)
現状は桁行五間、梁間六間、寄棟造、茅葺、一間向拝付となっているが、これは近年改変されたもので、当初は桁行三間、梁間四間で、両側面と背面に裳階を付けた形式であった。様式は禅宗様に和様を加えたものからなり、身舎は円柱に足固貫(あしかためぬき)、飛貫(ひぬき)、頭貫(かしらぬき)、台輪を組む。組物は出組(でぐみ)で、正面と背面は詰組(つめぐみ)とするが、そのほかに板蟇股をおく。軒は二軒繁垂木である。内部は前寄り一拭板敷、天井は猿頬天井を張る。柱間装置はほとんど欠失し、開放となっているが、痕跡によると、正面三間は唐戸構、両側面前寄り三間は引違戸、内外陣境は中敷居入りの引違戸であったことがわかる。来迎柱間には、前面に高い須弥壇を取付け、背面は側柱にかけて高く仏壇を作っているが、これらは後世改変されたもので、当初は須弥壇が低く来迎壁があったらしい。背面両脇間はもとから脇仏壇であったと思われる。
もこしは前より第二間から後方にあって、背面に廻るが、背面中央三間分は出が小さくなる。方柱に足固貫、頭貫、台輪を組み、平三斗、一間疎垂木、木舞裏とする。柱間装置は欠失しているが、当初は正面が板壁、側面前寄り二間が片引戸、後寄り二間が板壁、背面は中央間が引分け戸のほかは板壁であったと思われる。
この堂は部材の保存がきわめて良好で、軒先まで当初材が残っており、加えて旧痕跡が明瞭で当初の状態がよくわかる。関東地方における中世から近世にかけて建築の流れを知る上に貴重な遺稿である。
取手市教育委員会
本堂の前には大きなキンモクセイ。その右は、写真では切れてしまったが珍しい(?)モチノキ。雌雄異株の常緑高木で樹皮からトリモチを作れるそうだ。これは雄株。
つづく。