墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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菊池寛実記念 智美術館 西洋館見学会

前回のつづき。

食事の後、午後1時10分から3時20分頃まで、西洋館の内部を詳しく見て回った。

講師は元明治大学理工学部建築学科講師の篠田義男氏。実際にこの西洋館の修復に携わっている方で、見学会の解説も100回近くになるようだった。

A4版頁の詳しいレジュメをいただいて、現地説明会のような講義型式だったが、あっという間の充実した2時間だった。

写真撮影可は外観のみ。

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 レジュメにあった「位置」のパート

虎ノ門からアメリカ大使館、ホテルオークラのある江戸見坂の高台の頂部に位置し、旧芝葦手町の洋館群の一角に位置した邸宅である。開発が急速に進む現在の周辺の状況から考えてこの建物が最後の洋館となった。

高台と洋館との関係を再認識した。 建っている場所も貴重であるということ。

周囲を森ビルに囲まれて(実際、森のようにビルが建っている)、奇跡的に残った場所であることを実感した。

 

施主の菊池寛実(かんじつ)氏については、港区ゆかりの人物データベースサイト で紹介されていた。

菊池寛実記念 智美術館は現代陶芸のコレクターである菊池智のコレクションを公開するため平成15年(2003)4月に開館いたしました。同美術館のある虎ノ門4丁目1番地辺りは、かつての芝葺手町(しばふきてちょう)で、明治期の豪商・田中平八郎(2代目)にちなんで命名された「田中山」と称される微高地の一角を占める町でした。小さな町域にもかかわらず、芝葺手町は近代東京における邸宅地の展開を知る上で重要な場所です。大正から昭和にかけては財界人の邸宅が隣り合って屋敷町を形成していました。同美術館は煙草商として財を成した千葉亀之助の自邸を引き継いだ敷地にあります。別館は大正15年に竣工したもので、千葉亀之助邸の和風本館(現・智美術館位置)に付属する洋館として建てられました。設計は外国人が担当したと言われていますが、詳細は不明です。同美術館別館は平成15年(2003)に国の登録有形文化財に登録されています。  

 

以下(室内写真も)は、文化庁のサイト文化遺産オンラインよりの抜粋。

・菊池寛実記念智美術館別館

大正/1924年頃 →篠田先生は施主のお孫さんに大正15年(1926年)竣工と直接確認されたそうです。
木造2階建、スレート葺、建築面積188㎡ 1棟
株式会社南悠商社 →京葉ガスの親会社

もと実業家の邸宅の洋館部分。木造で,中央部が2階建になり,スレート葺の複雑な屋根を架ける。基礎は小松石成層乱積で,漆喰塗の外壁は要所に煉瓦タイルを張り,ステインドグラスや当初の建具もよく残り,当時の造形と意匠の傾向を伝えている。

菊池寛実記念智美術館別館 きくちかんじつきねんともびじゅつかんべっかん
 
下記は篠田先生のレジュメにあった「公開に至った経緯」
洋館自体の魅力と、建物の維持に努めておられるご当主の魅力が伝わってくるので、そのまま引用させていただきます。
 昭和54年の火災により、屋根及び2階部分を焼失したが、菊池智氏の消防当局への懸命の懇願により全壊を免れた。ゲストハウス建設時に設計者であった菊竹清訓氏の監修により洋館は改修され、インテリア設計はスコットランド系米人リチャード・ナップル氏と菊池智氏の10年にわたる協働により、本格的な英国のクラシカルなスタイルと家具で内装された。そういった意味での洋館の基本的な様式と考えられる英国の中世の住宅の様式であるチューダー様式に相応しく改修されたものと考えられる。
この洋館を後日訪れた英国人が何故日本にこのような英国にも少なくなったスタイルのものが残っているのかと驚かれたと云う逸話が残っているほどの英国スタイルであると考えられる。大正末期から昭和初期は日本の洋館の全盛期といわれ、チューダー様式やゴシックリバイバル様式を手本として作られた洋館が多く作られた。この建物のオリジナルの設計者は不詳であるが、おそらくこの流れを受けた建築家が設計したものと考えられる。
この洋館は、菊池氏により現在尚丁寧に使い続けられており、形骸化された文化財としての洋館とは一線を画しており、現在の我が国において貴重な存在であると考えられる。外観もさる事ながら、内装の精緻なチーク製パネル、ステンドグラス、様々なスタイルのドレープ類、英国の様々なスタイルの家具類、ケービングが施された階段など注目されるものに溢れている。
菊池智氏はこのように本格的に修復された洋館を、丁寧に守ってこられたが、今回の西久保ビル、美術館、持仏堂、の竣功を機会に、修復された洋館の姿を心ある方々に、正確な形で公開する事を決意されたものである。
 
 昭和54年に本館(和風建築)から火が出て洋館も延焼。2階部分が焼けたが、智氏が現場で消防隊に懇願して「破壊消防」にならなかったため、建物が現存している。

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玄関周りのレンガタイルもアーチの左右から色が変わっており修復されたことがわかる。

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 「腰」に使われている小松石。伊豆に近い根府川産の色がきれいなもの。

表面が平らに処理された部分は改修前は玄関内だったとのこと。

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玄関脇の見事な窓。開閉する部分の上の横帯の模様が、腰の下の床下喚起口の格子模様と呼応していた。

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登録有形文化財の銅板が取り付けられている。

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屋根葺きは天然のスレート石。瓦との比較が面白かった。

瓦の技術は日本でも1300年以上の伝統があって技術的には完成された域にあり、瓦同士が重なる部分もほとんどないが、スレートの方は軽い代わりに3分の2が重なり合う。

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スレート石は天然石を割り出して作る。

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日本では主に宮城県で産出される石材。東京駅でも使われ、物語があった。


3分の2を重ねても水がはいってきやすいので、屋根勾配は1:1つまり45度と急になっているそうだ。

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玄関でスリッパに履き替えて、各部屋でじっくりお話を聴いた。

はいってすぐの正面の部屋に、非常に美しい、孔雀のステンドグラスがあった。

製作者は、小川三知説もあるようだが、篠田先生はこの点も施主のお孫さんに「外国の方に頼んだ」と確認され、ルイス・コンフォート・ティファニー(ティファニー創業者の長男)によるものと考えられている。このステンドグラスだけで当時の金額で1万円、現在価値で高い方の数千万円になるそうだ。

ちょうど窓の向こうから日が射し、さまざまな階調の青と緑が、金色のような地の色に映えていた。

絨毯の上に立ってうっとりと眺めていたが、その絨毯も百年前のペルシャ製だった。

 

部屋ごとに高さが異なる壁材(チーク材)や天井の処理、ビクトリアン・ゴシック調の家具、それらが今も使われている状態で部屋の中に入ることはとても貴重な体験だった。

修復(現在に至っても少しづつ進められている)にあたっては「オーセンティシティ=由緒の正しさ」を守ることが貫かれているそうだ。

そこまでやるかと驚いたのは2階の寝室。こちらは火災後の修復で形もオリジナルと異なっているが、ゲストが泊まることもあるという部屋に入ったら急に静かになった。自分の耳のせいかと思ったら、壁材(布製)の裏に綿が吸音材として埋め込まれているとのことで、しかも木綿だと湿気を吸いっぱなしになるので、部屋が乾燥すると吸った湿気を吐き出す機能もあるという絹製だった。

 

火災を経ても、1階はインテリアも殆ど無傷で残り、大正15年創建のままのステンドグラスやガラスも(孔雀の大ステンドグラスも含めて)かなりの数になるそうだ。

 

たっぷり説明を聞いて再び外へ。玄関から北側へ回る。

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さらに回り込んで行くと孔雀のステンドグラスの裏側へ。外側は強化ガラスで防護されていた。

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この部分だけ平面プランに凹みがある。

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家全体がステンドグラスを中心に設計されていることが理解できた。

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庭に回ったところから。右側の屋根が大きく圧迫感があるが建築当初の写真では、庭側に「妻」があった。

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ベランダの3連アーチが綺麗。

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立派な槙の木は建築当初のもの。火災から建物を守る役割も果たしたのでは。

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庭はレストランに面している。

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日本庭園と池もあった。雀や鳩や野鳥を結構目にした。

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庭の奥には持仏堂。菊池智氏が父寛実氏のために建てた。設計は関西の方(名前を聞き逃しました)で屋根に「むくり」が見られる、との解説があった。

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再び西洋館。手前の小さな階段のあるところはかつて和館と廊下でつながっていたそうだ。新たに取り付けた玄関の設計は篠田氏による。

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玄関屋根の勾配は横木の下から取り付けたので緩くしたとのことだった。

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菊池智さんについて検索したら、下記のサイトにお写真とインタビュー記事があった。

京葉ガス80周年(創業1927年)の記念記事なので、今から8年前の記事。

市川のエピック月刊いちかわインタビューページ8月号

菊地智氏経歴: 1923年東京生まれ。幼少時代は築地明石町の外国人租借地で過ごす。聖心女子大学の前身である聖心女子高等専門学校に進み、国文科を卒業する。第二次大戦中、父(故・菊池寛実)の炭鑛のあった茨城県高萩市に疎開した折り、徴用で来ていた瀬戸の陶工が作品を作るのを見て感銘を受け、戦後陶器の収集を始める。74年より若い陶芸作家を育てるため、発表の場としてホテルニューオータニ内に現代陶芸ギャラリー『寛土里(かんどり)』をオープン。日本陶芸を海外に紹介するため、83年にアメリカのスミソニアン博物館、イギリスのヴィクトリア&アルバートミュージアムで個人コレクションの展覧会を開き好評を博す。現在は95年に没した兄・仁の後を継ぎ、菊池グループ(京葉ガス等約40社)を率いるほか、『菊池寛実記念 智美術館』の理事長を務める。

 

菊池寛実氏については、Wikipediaでは下記のようにあった。

菊池寛実(きくちひろみ、通称:かんじつ、1885年(明治18年)4月28日~1967年(昭和42年)3月12日)は日本の実業家、投資家。戦前は辰ノ口炭鉱、三友炭鉱、高萩炭鉱などを創業し、戦後は鮎川義介より日本炭鉱を買収。一時期には南俊二、大谷米太郎と並んで「日本の三大億万長者」の一人に数えられた。

 

ここで再び大谷米太郎さんの名前に出会うとは。


高萩市に菊池寛実記念炭鉱資料館があるようなので、今後機会をつくっていってみたい。

菊池寛実記念高萩炭礦資料館|高萩市|うぃーくえんど茨城

 

篠田先生、とても興味深いお話をわかりやすく説明いただき誠にありがとうございました。当方の認識の誤り聞き違いもあると思いますので、当ブログを見る機会がありましたら、何なりとご指摘くだされば幸いです(コメント欄、非公開にもできます)

また見学会を企画していただいたご当主および美術館関係者のみなさま、貴重な機会を設けていただき、感謝いたします。