前回のつづき。
中条の「城の山古墳」が思ったよりスムーズに探訪できたので、もう一ヶ所見当をつけていた菖蒲塚(あやめづか)古墳にも行ってみることにした。
新潟駅で電車を乗り換える。
下は乗ってきた特急「いなほ」(右)と、特急「北越」(左)
「北越」(新潟⇔金沢)は北陸新幹線開業に伴い廃止になる。
新潟から金沢方面は、妙高高原駅行きの特急「しらゆき」で新幹線に接続するそうだ。特急だけでは行けなくなる。
新潟駅構内にあった佐渡の金鉱石。
重さ2トン。黒縞模様の部分に金鉱の粒子があり、18金指輪55個分、銀も小型スプーン50本分を含むとのこと。
さすがに、警察隊の前に置かれていた。
新潟駅全体は大工事中。
在来線のホームをすべて高架化し、万代口(北口)と南口を地面レベルで往来可能にするようだ。
新潟市のサイトは詳しすぎ、JR東日本のサイトは簡素すぎて全貌がつかみにくい。新潟駅 - Wikipediaによると完成は東京五輪の後。
2018年(平成30年)度中 - 高架暫定開業
2021年(平成33年)度中 - 高架全面開業し、新潟駅周辺の在来線の連続立体交差化が完了する予定(周辺整備も含めた事業全体の竣工は2020年代を予定)
2022年(平成34年)度中 - 高架下交通広場の供用によるバスターミナルの南北一体化
2023年(平成35年)度中 - 万代口広場の整備完了。
越後線に乗って「巻(まき)」駅に向かう。
昨年製造されたばかりの新型車両。
が、線路は単線。はじめは海岸丘陵の南側に沿って西へ進み、途中から田んぼの真ん中を行く。田植え前の水を張る時期は、千と千尋の電車の風景のようになるのではないか。
40分で巻(まき)に到着。
こちらの駅も、幸いにタクシー乗り場があったので助かった。
さすが国指定史跡なので「あやめづか古墳まで」ですぐ伝わった。
(○○○のあやめづか?と確認されて、○○○はわかりません、というやりとりはあった)
古墳の入口のお寺まで、1040円。
奥が深そうなので、電話番号だけもらって帰車してもらう。
金仙寺は大きなお堂があったが、人の気配はなかった。
六体地蔵の隣に古墳の表示板を見つけた。
裏山へと上っていく。
階段は整備されていたが、伸びた笹が横倒しになっていて少し歩きにくい状態。
すぐに上が開ける。
登った先は墓地。
作業されている方の横が、まさに「入口」だったが、「きけんなのではいらないでください」のロープが張られていた。
話を伺ったら、子どもの頃はスロープを滑って遊んだりしたそうだ。墳丘上の木々は最近刈られたようで、墳丘の形がよくわかってありがたかった。
国指定史跡の堂々とした看板がある割には、看板が墓石の影に隠れるくらい墳丘の際ぎりぎりまで、周囲にお墓が密集していた。
説明板はしっかりしたものがあった(ここが北限の前方後円墳となっていた)
国指定史跡 菖蒲塚古墳(あやめづかこふん)
全長53mの前方後円墳。同形の古墳としては新潟県内最大規模をもち、日本海側沿岸部での北限にもあたります。4世紀後半の造営と推定され、角田山麓では山谷古墳(やまやこふん:全長38mの前方後方墳)に続く首長墓とみられます。
発掘調査は行われていませんが、江戸時代に青銅鏡1面、勾玉1点、管玉7点が後円部から出土しました。
鏡は鼉龍鏡(だりゅうきょう)と呼ばれる大型国産鏡で、類似品が中部地方最大の前方後円墳、山梨県「中道銚子塚古墳」や畿内屈指の豪華な副葬品を誇る奈良県「新山古墳」から出土しています。これらはヤマト王権からさずかった第一級の宝器と考えられ、被葬者に備わる信任の高さをうかがわせます。
北西に隣接する径15mの円墳は「隼人塚」と呼ばれています。同じく発掘調査は行われておらず、造営年代や被葬者の性格についても不明です。
西1kmたらずに位置する南赤坂遺跡から、北方系集団の移住を示す4世紀代の土器が1993年に発見されました。当時の蒲原地方は、北に開かれた情報・物資の交換基地をなした可能性が高く、ヤマト勢力最前線の首長が担った重要な役割を推測させます。指定年月日:昭和5年4月26日 所在地:新潟市竹野町 管理者:新潟市教育委員会
こちらのお墓は基壇が高く大きい。
その先に、説明板にあった「隼人塚」
後円部、頭の方から。高さは3,4mほどか。
後円部反対側にも入口的な門があったがロープがかかっていた。
後円部からくびれ部。
くびれ部横から前方部。前方部は2mほどの高さか。
前方部先の台地下には平野が広がり、その向こうに弥彦山が聳えていた。
舌状台地の先端の、まさに古墳らしい立地。被葬者は、地域全体を安定的に統率していたリーダーであったように感じた。
一方で直前に見た「城の山古墳」の立地は平地にあって見下ろされる位置にあり、「ここまで来たぞ」と最前線で戦った功績を示したかったのではないか・・・
城の山古墳の位置はここから北東へ直線距離で55km。東京から筑波山、あるいは平塚から東京くらいだが、途中で信濃川と阿賀野川の大河川を渡る。
両者の置かれた状況は、古墳の立地から見てもかなり異なっていたように想像された。
雲越しの太陽が月夜のようでもあった。
反対側の前方部脇から弥彦山。
後円部の右横側も切れ落ちていて、木々を透かして台地下が見通せた。
つづく。